◆近所からの差別に自殺までを考えた患者の家族
「片道30分くらいの家が、水だけは汲ませてくれたので、人目につかない時間に山道をいくのです。それでも石を投げられたり。家に食べるものがなく、夜、人家のない海辺でカーバイトをたいて魚も獲りました。雨戸は締め切ったまま。地獄のような生活が一年くらい続きました」
辛いのは弟や妹が学校にもいけないことだった。当時坂本さんは農薬の瓶をポケットに入れていた。

「姉を殺して自分も」と姉の首に手をかけたことが何度もあったという。「姉が、か細い声で言うんです。『ご』がいえなくて、『めんね、めんね』って。そして、私を見て『わかってる』というような顔をするのです。本当に安らかな子どものような顔で。それを見ると、どうしても、果たせませんでした」
察するものがあったのだろう、翌朝、食事中、父がぼそっと言った。「一人逝くなよ。逝くときはみんな一緒だぞ」

58年、坂本さんは23歳で大阪へ働きに出た。「おかゆでもいいから、姉にお米を食べさせたかった」。しかし半年後、危篤の報が届く。死に目には会えなかった。息を引き取った姉は解剖され、初めて「水俣病患者」と認定された。

大阪では「水俣」を隠した。だから友人も作れなかった。美容院で働きながら美容師の資格を取得したが、指先がしびれるなどのハンディに加え、レザーで指に大けがも負った。夢は諦めざるを得なかった。さらに40代の頃、水俣に帰省中、突然けいれんを起こして昏倒、病院に担ぎ込まれた。大阪では、医療の側にも水俣病に対する知識や理解が乏しく、坂本さんは、何軒もの病院で受診を断られた。(つづく)
【栗原佳子 新聞うずみ火】
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