◇私の進学に無関心な家族
人民学校では勉強ができる方だった私でしたが、市に一つだけある中学校、第一高等中学校に進学するには、もっと勉強する必要がありました。しかし、私一人ではその方法もわからず、学校で行われる午後の復習だけに頼るのも限界がありました。

第一高等中学校は、秀才(幹部や金持ちの子供も含めて)だけが集まる人材育成のための特殊な学校で、卒業生はほとんど大学に進学するのでした(軍隊や工場、炭鉱などに配置される心配もありませんでした)。学習プログラムも一般の高等中学校とは違うハイレベルなもので、農村支援などの課外活動も免除されました。まさに、国の科学技術発展の第一線で活躍する人材を育成する場所なのです。

そのような学校に進学するためには、人並みの勉強量では当然足りませんでした。元々第一高等中学校に進学することを考えたこともなかった私でしたが、学校の先生方に推されてなんとなく勉強する組に参加した感じでした。放課後の午後の復習時間に、選ばれた十数人と勉強をするのですが、大体が男の子で、女の子は少なかったです。私の1学年上の従兄は、学校で1位、2位を争う優等生でした。私たちは同じ組に入れられて勉強をすることになりましたが、従兄と私との間には歴然とした差がありました。

従兄は、その両親(私の伯父夫婦)の熱心なサポートを受け、家庭教師までつけて(お金を払って雇うのではなく、知り合いの先生や大学生に頼んでやってもらう。報酬は食事や物などに代えるのが普通でした。)、勉強以外のことはほとんどせず、受験勉強に集中していました。それだけでなく、私の伯母(伯父の嫁)は、賄賂を準備してあちこち回るなど(勉強ができても賄賂を使うのは普通でした。逆に使わないと、いくら勉強ができても進学が危うい)、息子を進学させるために必死でした。

それに比べ私は......。私の両親は、私が勉強をしようがしまいが、興味すら示さないのでした。学校で行われる復習の時間以外には勉強することもできません。私が祖母の仕事を手伝っている合間に本を読んでいると、いつも祖母に怒られました。男尊女卑の古い考え方が根強い我が家で、女の子である私の立場は、とても弱かったのです。

著者紹介
リ・ハナ:北朝鮮・新義州市生まれ。両親は日本からの「帰国事業」で北朝鮮に渡った在日朝鮮人2世。中国に脱出後、2005年日本に。働きながら、高校卒業程度認定試験(旧大検)に合格し、2009年、関西学院大学に入学、2013年春、卒業。現在関西で働く。今年1月刊行の手記「日本に生きる北朝鮮人 リ・ハナの一歩一歩」は多くのメデイアに取り上げられた。
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