○身も心も疲れ果て
私たちは、一時的に叔母(母の妹)の家に預けられ、母はたまに顔を出して私たちの様子を見るくらいでした。母は、戸籍を取り戻すために、党や行政機関にかけあっていました。そう簡単な問題ではないため、解決には時間と、労力と、金が必要でした。そのために母は東奔西走しました。当初の予想と違って、戸籍を取り戻すための「戦い」が長期化するにつれて、行政機関の言うままに振り回される母も、私たちも疲れていきました。
詳しいことはよく分からないまま、母の判断によって、私たちはあちこちに住みました。親戚や知人の家に預けられたり、母が用意した家で一緒に暮らしたりと、よく覚えられないほど転々としていました。母はいつも外に出ていて、一緒にいる時間はとても少なかったです。
私にも私なりの苦労がありました。いくら親戚の家とはいえ、居候はとてもつらいものだったのです。一時期復学はしたものの、一年間しか通うことができなかった私は、その後は学校に通うこともできず、親戚の家で「こき使われる家政婦」になってしまいました。叔母の家では、幼い子供二人(従弟たち)の世話と家事を、祖母の家では、以前よりもひどく当たる祖母の「厳しい修行」に耐えながらあらゆる雑務をやらされることに...。
祖母の家にいた時期には、父の死という衝撃がありました。祖父が体を縛られ、家中の現金や貴重品を奪われる強盗事件にも遭い、寿命が縮む経験をしました。同級生たちが学校を卒業し、大学や軍隊や工場へと進んでいく中で、戸籍がなくて何もできない私は一人ぼっちになり、農村に連れ去られるのではないかという不安に怯えていました。数々の衝撃や苦労に耐えていく中で、身も心もボロボロになった私は自殺を図り、見かねた叔母(母の妹)に再び預けられることになりました。
著者紹介
リ・ハナ:北朝鮮・新義州市生まれ。両親は日本からの「帰国事業」で北朝鮮に渡った在日朝鮮人2世。中国に脱出後、2005年日本に。働きながら、高校卒業程度認定試験(旧大検)に合格し、2009年、関西学院大学に入学、2013年春、卒業。現在関西で働く。今年1月刊行の手記「日本に生きる北朝鮮人 リ・ハナの一歩一歩」は多くのメデイアに取り上げられた。
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