○忘れられない夏の夜
替え歌など歌っていた私たちは、その出所がはっきり分からない歌をもこっそり歌っていました。流入経路についてはよく分かりませんが、学校で誰か一人が歌い始めると、またたく間に全校に広まるのでした。私たちも、カセットテープを聴いて歌詞を覚え、それをギターで弾けるように練習しては、友達の家に集まって歌ったりしていました。

のちに知ったのですが、私たちが中国延辺地域(中国の朝鮮族自治区)の歌だと思って一生懸命に真似をしていた歌は、韓国の演歌歌手・羅勲児(ナフナ)氏の曲など、ほとんどが韓国の演歌でした。

その後、学校をやめて、叔母(母の妹)の家に一時期住んでいた頃も、ギターと歌は、私の憂鬱を晴らしてくれる心の友でした。当時の叔母の家はとても狭く小さな家で、家を出るとすぐに大きい道路があってアパートが立ち並んでいました。電気がなくて扇風機もつけることができない真夏の夜は蒸し暑く、蚊や蝿が多くて、眠れない日が続きます。すると、みんなドラマを見た後外に出てきて、歌ったり踊ったりと大いに盛り上がり、長い長い夏の夜の暑さを吹き飛ばします。

最初は私も眠れなくて家の前でギターを弾きながら歌っていました。それが、だんだん周りに人が集まるようになり、老若男女問わず数十人が集まるまでにふくれ上がりました。私だけでなく、歌いたい人、踊りたい人はみんな出てきて、その腕前を披露し合い、毎晩夏祭りのように大盛況でした。
当時私たちが歌ったのは、韓国の演歌やダンス曲、私が学校で友達と歌っていた替え歌などでした。その歌詞やメロディーが、みんなにはすごく新鮮に感じられたと思います。

変化と求めていたのは私だけでなく、みんなもつらい中で楽しさや活力を求めていたのだと私は思います。そうでなかったら、私は、とっくに警察に捕まって調査を受けていたかもしれません。

舞台はだんだん大きくなり、大通りに出て毎晩騒がせたのに、誰一人密告した人はいませんでした。後で聞いた話ですが、集まった中に巡回していた私服警官がいた日もあったそうですが、運よく私もみんなも無事でした。みんなの前で好きに歌って好きに踊って喝采を受ける、みんなの注目を浴びるというのは思ったより気持ちの良いものでした。

私にとっては本当に忘れられない楽しい夏でした。そして、楽しい夏を過ごしたその年の冬には、私は死を覚悟した、帰りを約束できない長い旅に出るのでした。

著者紹介
リ・ハナ:北朝鮮・新義州市生まれ。両親は日本からの「帰国事業」で北朝鮮に渡った在日朝鮮人2世。中国に脱出後、2005年日本に。働きながら、高校卒業程度認定試験(旧大検)に合格し、2009年、関西学院大学に入学、2013年春、卒業。現在関西で働く。今年1月刊行の手記「日本に生きる北朝鮮人 リ・ハナの一歩一歩」は多くのメデイアに取り上げられた。
「私、北朝鮮から来ました」記事一覧

★新着記事