自殺未遂(上)
◇ 絶望で、息をすることさえ苦しい
戸籍を取り戻すための「闘い」が、思った以上に長引くにつれ、私たちの忍耐力も限界に近づいていました。度重なる引越しや居候生活、安定した生活を送ることができない転々とした「放浪」生活に、私たちは精神的にも肉体的にも疲れきっていたのです。
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私の母は、党や行政機関に掛け合ったり人脈や賄賂を使ったりして、私たち3人の戸籍を農村から取り戻すために奮闘する一方、生計をも立てなければな らなかったので、大変な苦労を強いられていました。学校に通わず休んでいた私は(当時は、私のような未成年には働けるようなところもなく、アルバイトとい うものもありませんでした)、家のことを顧みる余裕がない母を助けて家事を切り盛りしていましたが、やはり先が見えない今の状況を悲観して、暗澹とした気 持ちだけが日々大きくなっていきました。
引越しをくり返したり、親戚や知人の家に居候をしたりのつらい生活。その中で私の心を支えていたのは、「きっと戸籍を取り戻すことができて、学校に も通え、きちんと卒業もできる、大学に行けなかったとしても市内で就職することはできる」と信じていた気持ちでした。その希望だけが、同級生から離れて一 人ぼっちになっていく孤独感と劣等感を抑えてくれていたのです。
しかし、長くて1年と考えていたことが、数年かかっても解決できない厳しい現状を突きつけられ、私の気持ちはどんどん絶望的になっていきました。学 校を卒業し、進路が決まってゆく同級生たちと自分の境遇を比べて涙ぐむ時間が増えました。些細なことにも敏感に反応してしまう多感な時期に、何一つ思う通 りに運ばない今の状況が、私には耐え難い苦痛だったのです。
「自殺」を考えたのは、2000年のことでした。新年を迎えても何一つ喜びを感じなくなった私は、農村に連れて行かれて、そこから出られない悲惨な 一生を送るより、いっそのこと死んでしまおうと思うようになりました。何もかもが嫌になり、息をすることさえ苦しく感じられた私は、死んでしまえば、すべ てを忘れて楽になれると思ったのです。
北朝鮮では、自殺は国に対する裏切り行為とされていました。でも、そのときの私にはそんなことを考える精神的余裕がありませんでした。家出して、誰 も私を知らないところに行ってしまおうとも考えましたが、働いた経験もない(当時は、学校を卒業して社会に出るまで親元を離れることがなく、結婚するまで 親の厳しいしつけを受けるのが普通でした)私に、知らない世界に飛び込むほどの勇気はありませんでした。家出をすれば、コチェビ(注:道端などで暮らす浮 浪児)となって、知らない町で死んでゆく運命が待っているということくらいは私にもわかっていて、そんなことは死ぬより嫌だったのです。
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