◆夫婦でアルバイトを始める(2)
イラン国営放送の短波放送「ラジオ日本語」で働き始めたことは、私と妻のこれまでの生活に程よい緊張感と刺激を与えた。
私は、息の詰まりそうな大学院生活から離れた、もうひとつの居場所を見つけた思いだった。妻はその頃、アパートの大家さんであるKさんの大学生の息子さん と、日本留学を控えた女子大生に、自宅で日本語の個人授業を行っていたし、自分で暇を見つけては外出していたが、私と違って何か目的があってイランに来た 訳ではない。アルバイトとはいえ、この地で職を得たことは、彼女にとって大きな励みとなった。
面白いチャンスが転がってくるものだねぇ、と妻はとても喜んでいた。もともとカラオケ好きで、声もよく通る妻は、アナウンサーの仕事に対しても不安な表情一つ見せなかった。
一方、私にとって翻訳の仕事はかなりハードルの高いものだった。大学院での勉強のおかげで、「略奪」とか「占領」とか「目潰し」といった歴史用語はよく 知っていたが、もちろんニュースの翻訳では、政治、経済、文化、学術、そしてイスラムのすべてにおいて語彙力が必要だ。それに職場での翻訳は、決められた 時間内で片付けていかねばならない。
職場では、翻訳者同士、互いに翻訳した原稿を交換し、校正をしあう決まりになっている。当然、たっぷり修正の入った原稿が戻されてくる。文章を直すのも、直されるのも、あまり楽しい作業ではない。
そうかといって、アナウンサー担当の日が待ち遠しい訳でも決してない。生放送の収録では、いつになっても緊張が解けることはなかったし、ニュース原 稿を一行飛ばして読んで訳が分からなくなったり、漢字の読めない人名が出てきたりして、頭が真っ白になることも珍しくなかった。その上、もともと滑舌が良 くなく、遠い日本のリスナーから手紙でそれを指摘され、落ち込むこともあった。自宅で妻と交代で、原稿読みの練習もよくやったが、声を出すことそのものが 楽しいという妻は、当然ながら上達が早かった。
しかしながら、そんな困難を差し引きしても、私にとってラジオの職場は収穫に満ちていた。
例えば、預言者ムハンマドやイスラム教シーア派の歴代イマームたちの逸話を紹介する「イスラム昔話」という10分ほどの番組がある。二人か三人のアナウン サーで配役を決め、ラジオ劇風に収録するのだが、内容は、預言者やイマームたちが、困難な環境の中で正義を貫いたり、英知と機転で悪を退けたり、身分を隠 して善行を施したり、虐げられた人びとに慈悲を傾けたりする勧善懲悪のストーリーである。それは、彼らが神と人民の側に立ち、常に時の圧制者に立ち向かっ ていたことを物語るとともに、シーア派12イマーム派の正当性を説くものでもある。イラン人なら小学生でも知っている逸話ばかりだという。
他にも、イランの料理、名所旧跡、民話、イスラムの偉人などに関する番組もあれば、宗教行事ごとに特別番組もあった。言ってみれば、イラン人がイラ ンで生まれ育つ中で自然に身につける、ごくごく基本的な一般教養を、私はこの職場で学ぶことが出来たのだ。そのいずれも、大学院の授業では決して学ぶこと の出来ないものだった。
もちろん、好ましいと思えるものばかりではない。欧米社会がひたすら衰退に向かっており、彼らが今やイスラムを求めているといった独善的な番組も多 かったし、欧米社会のモラルの崩壊、退廃の最たるものとして同性愛や同性婚を挙げ、それを忌むべき悪しき習慣としてこき下ろすくだりなどは、そのまま訳し て放送することなど出来ないほどの文面だ。
また、「イスラエル」を国家として認めないイランの公式メディアは、代わりに「シオニスト政権」とか「占領体制」などと呼ぶことが決まっており、ラジオ日本語でも「シオニスト政権イスラエル」と呼ぶことになっていた。
こうした事柄もまた、イランやイスラム教の持つ一面であり、イランに住む者として知っておくべき知識であるとも言えた。
このラジオ勤務でもうひとつ大きなウェートを占める場面があった。それは、行き帰りの送迎乗合タクシーでの時間だ。
「セルヴィス(サービス)」と呼ばれるこの送迎車は、同時間に出勤する職員を地区やルートごとにピックアップし、会社と家の間を送迎してくれる。
セルヴィスの運転手にはいろんな人がいた。気のいい人、怒りっぽい人、紳士的な人、無口な人。苦手なタイプもいる。こちらの語学力など意に介さず、 一方的にしゃべり続けるタイプは非常に苦手だ。そんな運転手の助手席に座ると、職場に着くまでの30分弱でかなり消耗してしまう。かといって、助手席が空 いているのに後部座席に座るのは何となく気がひける。イランのタクシーでは、お客は進んで助手席に座り、運転手との会話を楽しむのが普通なのだ。それは私 にとってはちょっとしたプレッシャーだったが、私よりペルシャ語の拙い妻は尚更のことだった。女性なので助手席に座る必要はないが、後部座席でも乗客が一 人なら同じことになる。
どんな運転手であれ、彼らが敬虔なイスラム教徒であることに変わりはない。ときには、異教徒の私にこんこんとイスラムの優位性を説き、職場に着いて も車を下ろしてくれない運転手もいた。別の運転手とは、輪廻というものがあるのかについて議論になり、やりこめられた(イスラムには輪廻は存在しない)。
こういう宗教問答では、彼らは異教徒の反論など最初から織り込み済みで、受けた刀でばっさり切り伏せてくる。自身の宗教に対する知識で言えば、一般 のイスラム教徒のイスラムに対する知識は、仏教における僧侶の知識に等しいかもしれない。小学校から宗教の授業があり、高校では教義に関するかなり高度な 議論も行われる。それは多感な高校生たちの様々な悩みや疑問に答えるものでもあり、非常に興味深い内容なのだと聞いたことがある。
話が逸れたが、輪廻についての議論では、もし輪廻があるのなら地球上の魂の絶対数は増えないはずなのに、なぜ世界人口は増え続けているのかと問わ れ、私が答えに窮したところで勝手に勝ちを宣言されて終わった。「君はもっとイスラムについて勉強した方がいいね」と鬼の首を取ったような顔で言われ、車 から降ろされたのだった。
しかし、そんなセルヴィスの運転手たちが、私にとって良き教師であったことも確かだ。彼らは国営放送に雇われてはいるが、職員ではないので、決して 高学歴ではなく、思想的、社会的なバックグラウンドにも偏りがない。イランのこと、世界のことについて意見を問えば、様々な市井の声が返ってきた。車窓に 見える物事について、「あれは何?」とひとこと問えば、10倍、20倍もの答えが返ってきた。
助手席に座ることが運命付けられた日には、出来るだけ彼らに質問をし、その意見を拝聴するようにしていた。もちろん、宗教の話題を避けるようにしたことは言うまでもない。