◇ 運命を受け入れる
どれくらい時間が経ったのでしょうか。気がつくと、私は病院の一室に横たわっていました。あたりを見回すと、母があきれた顔で座っていました。私は意識を失った直後に大急ぎで病院に運ばれ、胃洗浄も行われたと聞かされました。

意識が戻ると、どうやって弟の顔を見たら良いのか心配になりました。母に怒られることを考えると、死んでも言わなかったらよかったのにと、いまさらながら後悔の念が溢れてきました。そのまま死んだら良かったのに、なぜ死なずに生き返ったのだろう。この先、一体どうしたら良いのか、胸が苦しくなりました。

2日くらい病院にいてから、私は家に戻されました。母がどう口封じをしたのか、うわさが立つことはなく、憂慮していた大事は起こらず無事に済みました。

家に戻った私は、自宅で点滴を打ちながら、三日間眠り続けました。そうして三日が過ぎると、今度は眠れない日が三日くらい続きました。全身の力が抜けてしまい、トイレに行くにも一苦労、ろれつが回らず話すこともままならない病人同様になってしまいました。

眠るのも、眠れないのもあれだけつらいことなのかを痛感し、後遺症だけを抱えることになった私は、もう二度とこんな真似はしないと決めました。「姉ちゃん、もうこんなことはやめて。死ぬなら、一人で死なないで、僕も一緒に死ぬ」と、悲しみに満ちた弟の声が私の胸に突き刺さり、やっと自分を取り戻すことができたのです。弟のその一言が、私に何があっても生き抜こうという意欲を持たせてくれました。

振り返ってみれば、自殺以外にも、私は生死の境を彷徨う経験を幾度となくしてきました。石炭やガスなどで一酸化炭素中毒にかかったことが何度もあり、抗生剤アレルギーで病院で倒れたこともあり、タクシーとぶつかって「体が宙に舞う」経験もしました。中国に脱出する際には、それこそ死ぬか生きるかの瀬戸際に立たされ、警備隊に銃で撃たれるのではないかと恐怖に怯えました。一度、中国公安の一斉検挙にかかったときは、手首を切ろうとしたその瞬間に、帰ってもいいと言われて出られたこともありました。

でも、その度に生き延びて、いまこうして日本で暮らしていることを考えると、私はただ生きているのではなく、生かされているのだと思えたりもします。
私の祖母は口癖のように私に言っていました。「お前はコセンパルチャ(苦労する運命)で、苦労することがミョンテム(命つなぎ)だ」と。もしその話が本当だとすれば、私は人生に降りかかる数々の苦難をありがたく思い、生きているだけで幸せだと思うべきでしょう。

実際にそう思うのはとても難しいことですが、それでも私は、命が尽きるまで、与えられた人生を生きようと思います。たとえ、後世にその名を残すこともできず、世に言う失敗した人生を生きることになったとしても、「生きる」意味をかみ締め、祖母の分まで、父の分まで、精一杯生きたいと思います。

【著者紹介】
リ・ハナ:北朝鮮・新義州市生まれ。両親は日本からの「帰国事業」で北朝鮮に渡った在日朝鮮人2世。中国に脱出後、2005年日本に。働きながら、高校卒業程度認定試験(旧大検)に合格し、2009年、関西学院大学に入学、2013年春、卒業。現在関西で働く。今年1月刊行の手記「日本に生きる北朝鮮人 リ・ハナの一歩一歩」は多くのメデイアに取り上げられた。
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