◆イランでの妊婦生活(上)
妊娠が分かったとき、妻は強い不安と後悔の念に襲われた。というのも、妻は最近、強力な下痢止めを飲んでいたからだ。ロモティルという名のその下痢止めは、「下痢止め界の核兵器」の異名を持つほどよく効く薬で、当然、妊娠初期の服用は好ましくない。
妊娠がまだ明らかになっていなかった先週、数日ひどい下痢に苦しんでいた妻は、アナウンサーの仕事に差支えがあるといけないからと、一度だけこの薬を飲んだ。ところが、どうやらこの下痢自体が、妊娠初期特有の兆候だったらしい。
後に、イランの婦人科の先生から、妻が下痢止めを飲んだのは、胎児の体の各器官が形成される最も重要な時期からは外れているので恐らく影響は出ない だろうと聞かされた。私たちはひとまずその言葉を信じるしかなかったが、それでも、私たちはこの一件によって、その後10ヶ月の間、不安を抱え続けること になった。
下痢が治まると、今度は突然、つわりが襲ってきた。妻はかなりつわりが重い方らしい。途端にイラン食はもちろんのこと、それまで好きだったものも含 めてほとんどの食べ物を受け付けなくなった。24時間、四六時中吐き気をもよおしているというのは、男の私には想像もつかない苦しみに違いない。想像もつ かないので、カレーやお好み焼きといった日本食を、喜ぶだろうと思って作ってあげていた。妻は内心、「食えるかー!!」と心の中で悲鳴を上げていたらしい が、せっかくだからと無理して食べては全部吐いていた。
みるみる衰弱してゆく妻を連れて産婦人科を回り始めたのは、妊娠6週目を過ぎてからのことだった。古めかしい国立病院から開業医のレディースクリニックまで、人づてに良いと噂を聞いたところを順に訪ねてみたのだが、ここはと思える病院はなかなか見つからなかった。
あるクリニックでは、日本では妊婦に好ましくないとされる薬を処方されたし、別のクリニックでは、腹痛を訴えたのに内診すらしてくれなかった。代わ りに胎児の心音を確認し、「赤ちゃんは元気だから心配ない」と片付けてしまうのだ。実際、それまで訪ねたクリニックで、内診、触診をしてくれたところは皆 無だった。
そして最後に行き着いたのが、家から車で5分ほどの、市営診療所の婦人科だった。下痢止めの影響について説明してくれたのはここの女医さんで、彼女 は妻の血圧を測り終えると、すぐさま点滴の準備をさせた。点滴でつわりが治まるわけではないが、衰えた体力、気力を少しは蘇らせてくれるようだ。
市営診療所の女医さんは、妻によれば「信頼できそう」とのことだった。イランで産む産まないは別として、主治医として不測の事態にも対応してもらえる、信頼できる先生が、妻の精神衛生上も必要だった。
しかし、この女医さんも内診をしてくれないことでは同じだった。どうやらイランでは、婦人科の病気であれば内診もあるらしいが、妊婦の診察でわざわざ内診、触診は行わないらしい。
「出産の日まで一度も妊婦の身体に触れずに、安全なお産なんか出来るのかな」
妻の不安は男の私でも理解できる。
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