◆イランでの妊婦生活(下)
イランの家庭料理はバラエティーに富んでいるが、外食となると、途方に暮れるほどレパートリーが少ない。家から徒歩で行ける外食と言えば、ピザやハ ンバーガーといったファーストフード、ご飯と焼き物、あるいはご飯と煮込み料理のパック詰め弁当、臓物の串焼き屋、そして、羊の足と頭をじっくり煮込んで 目玉や脳、頬肉をいただくキャレパチェ屋くらいしかない。どれもおいしいが、こってりとしてボリュームがあり、健康体の私ですら、猛烈に腹が減ってがつん と重いものを食べたい衝動に駆られた日でもなければ、わざわざ外食してまで食べに行こうとは思わない。つわりで苦しむ妻はなおさら、一口たりとも口に出来 るものはない。
「ゼリー食べたい」
妻がそう望めば、翌日、私は勤め先のラジオ局からバスで20分ほど行った繁華街、タジュリーシュのお菓子屋さんでゼリーの素を買い、家路につく。あるいは、近所の食料品店でゼラチンとフルーツジュースを買って帰ることもある。
納豆や豆腐の作り方も、日本人であるアパートのオーナーKさんから教わったし、市場で買った魚で干物も上手に作れるようになった。白菜やキュウリ、カブの浅漬けや糠漬けもある。インドネシア産の醤油にオレンジを搾った付けダレでいただく水炊きも、妊娠中の定番メニューだ。
妊婦は酸味を好むものだが、イランには日本の米酢はなく、あるのはリンゴ酢、ブドウ酢、ホルマー(ナツメヤシの実)酢ぐらいで、日本人にとってはリンゴ酢が一番使いやすい。極細のパスタで作った冷やし中華のタレも、このリンゴ酢を利用した。
欲しいものが容易に手に入らず、一から手作りしなければならない苦労もあれば、安くて豊富な果物やおいしいヨーグルト、母乳を作るのに良いとされる甘いナツメヤシの実など、妊婦にとっても嬉しい、イランならではの豊かな食の恩恵もある。
だが、恐らく何よりも大きな恩恵は、イランに住む妻の友人たちの惜しみない支援だろう。
妻の友人たち(イラン人の夫を持つ日本人妻たち)は、代わる代わる我が家を訪れては、手料理を置いていってくれた。料理だけでなく、つわりで動けず 退屈だろうと、本やプレイステーションまで持ってきてくれた友人もいれば、妊婦用のパジャマから下着に至るまで、様々なものが妻のもとに届けられた。
日本でなら、つわりで苦しむ友人がいても、食べられるものには個人差があるので、食べ物を差し入れることは滅多にないのだろう。だがそこは長年イランに住 み、半ばイラン人化している彼女たち。その親切には清々しいほどためらいがない。相手が何を受け取るかより、精いっぱいの友情を示すことこそ重要なのだ。 その友情が、異国で初めての妊婦生活を送る妻をどれほど勇気付けたか知れない。
妻は実際、友人たちの手料理をいつも一口しか口に出来なかったが、妻に合わせた淡白な食事に辟易していた私には、この上ないご馳走となった。妻もそ れで私の食生活が豊かになることを喜んでいたし、ファイナルファンタジーのステージが上がっていくのを隣でニコニコしながら見ていた。日本からの小包に 入っていた一冊の妊婦用雑誌『たまごクラブ』をお守りのように大事にしていた妻は、友人たちから借り受けた妊婦向けの本をむさぼるように読んだ。
妻はアナウンサーの仕事も続けていた。あまりにつわりの重い日は急遽私が代理出勤する日もあったが、可能な限り出勤したがった。
送迎にはピックアップタクシーがあり、職場には日本人女性もいるため、働きに出ること自体にさしたる懸念はない。ただ唯一、この国の道路にある減速帯だけが私たちを不安にさせていた。
日本にも、車に音や振動を与えることでドライバーに減速を促す減速プレートやハンプと呼ばれるものがあるが、そんなものの比ではない。イランの減速 帯は、厚さ1メートル、高さ30センチほどの急勾配なアスファルトの小山であり、これが道路を横断するように敷かれている。減速(ほぼ停止)せずにつっこ めば、乗客は尻から脳天を突き抜けるような衝撃をくらい、下手をすれば天井に頭をぶつけることだってある。車も相当傷むだろう。
そんな恐ろしいトラップが街のいたるところに仕掛けてあるのだ。大通りより、歩行者の多い裏通りに多く敷かれ、地域の住民にとっては心強い存在であ るこの減速帯も、いざ我妻が妊婦となるや、最大の懸念の一つに取って代わった。自分が運転するならともかく、人任せでは、天に祈るよりほかない。
もちろん、祈っていただけではない。送迎車が迎えにくるたび、わざわざ夫自ら表に出て、「妻は妊娠中です。くれぐれも安全運転で、特に減速帯には注意を・・・」と運転手に頭を下げておくことを忘れなかった。彼女が最後の出勤の日を迎えるまで、そんな日々が続いた。
妊娠25週目を迎えた2007年2月、妻は7ヶ月間のイランでの妊娠生活に幕を下ろした。帰国前日には、イラン人も日本人も、妻の友人一家が車で駆 けつけ別れを惜しんでいった。子どもを持つことで、随分といろいろな人たちのお世話になるものだなあと、来ては去っていく妻の友人たちを見送りながら思 う。それはイランだからという訳ではないのだろうが、イランならではという面も確かにあった。そんな感慨にふける私の横で、妻が言う。
「これでやっと日本の産婦人科に診てもらえるよ」
「イランを去る感慨はないの?」
「だって、どうせまたすぐ来るんでしょ?」
イランを去ることも、いつイランに戻れるかも、これから命をかけて取り組む出産という人生の一大イベントの前では、どうでもいいことなのは当然だ。 順調にお腹は大きくなっているものの、これまで一度も内診と触診も受けていないことから、妻は一日でも早く日本で妊婦検診を受け、安全なお産が出来るとい うお墨付きを日本のお医者さんからもらうことを何よりも望んでいた。さもありなんと思う一方、彼女がイランを去る感慨を持てないのは、この時点ではまだ家 具を売り払ったり、アパートを引き払ったりしたわけではなかったからかもしれない。
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