私は妻に付き添い、彼女を日本の実家に送り届けると、すぐまた一人、イランへトンボ帰りした。そして大学院での2年目の前期試験を受けた。
この試験を終えると大学はイラン暦の新年ノウルーズ休暇に入り、それが明けた4月、私は教務課に出向き、妻の出産に立ち会うことを理由に休学手続きをとった。心の中では、もうこのキャンパスに戻ることはないだろうと思いながら。
この数ヶ月前、妻の妊娠が判明してしばらく経った頃、私はクラスメートと教授たちに妻の妊娠を報告した。クラスメートが口々に祝福の言葉を述べる 中、アガジャリ教授だけが表情ひとつ変えずに、「勉強はどうするつもりなんだ?」と苦言を口にした。私は返す言葉がなかった。なぜなら、日本でお産を迎え るのであれば、大学院を続けることは出来なくなるだろうし、むしろ、そんな成り行きを望んですらいたからだ。
そして迎えた最後の日、私は2年間良くしてくれた教務課の主任にも退学を告げることなく、フェイドアウトを決め込んだ。そんなふうに自分も周囲をも 欺き続けた大学院での2年間は、一体自分に何をもたらしたのだろう。不毛な時間でしかなかったのではないか。いや、不毛どころか、挑戦したことから逃げ出 すという汚点を初めて人生に残したことになる。教務課の主任と握手を交わすと、私は重い挫折感を抱えながらキャンパスを歩いた。
花壇に沿って大学正門へと続く長い長いコンコースを歩きながら、この通路を歩いた様々な日々の記憶を辿った。入学許可が下り、鼻息荒くこの通路を歩 いた夏の日のこと。不安に押しつぶされそうになりながら登校した授業初日のこと。努力に見合った成果が得られないことへの悔しさと失望を抱え、とぼとぼと この通路をたどった多くの日々のこと。それでも心のほんの片隅で、もしかしたらいつかすべてが報われる日が来るのではないかと信じた日々のこと。しかし今 日、私はすべてを放り投げて、何食わぬ顔でキャンパスを去るのだ。
まもなく大きな交差点に差し掛かり、いつもの歩道橋に上がった。マッチ売りの親子の姿はやはりなかった。思えばあの日以来、マッチ売りの男が娘を連 れてきているのを目にしたことがない。あの日は本当にたまたま娘を連れてきていたのだろう。それをたまたま目にしたことで、来月には子どもが生まれること になった。
もし何年かして、私たち家族が幸せに暮らしているのなら、それはこの大学に通った日々があったからだと言えるのだろうか。そうやって今が未来に繋がっていくのなら、この2年間を不毛だったと嘆かなくてもいいのだろうか。そんなことを思いながら、最後の歩道橋を渡り終えた。
5月に入り、私は2年間お世話になったアパートを引き払い、帰国の荷物をまとめた。たいした量ではないが、家具を売り払い、日本へ荷物を発送し、部 屋の隅々まで雑巾がけをし、最後にトランク一つでアパートの部屋を出るときには、妻とは異なり、感慨ひとしおもいいところだった。私はまだ父親にはなりき れていないのだろうと思った。イランに残した後悔や未練を、次のステップにするためにも、絶対にまた戻って来ようと心に決め、帰国の途についたのだった。