夜の静寂の中、息子の心拍に呼応する「ピッ、ピッ、ピッ、ピッ」という電子音は、いつしか息子の寝息そのものより、私たち夫婦に安堵を与えるものと なった。数値が90を割ると、「ピー、ピー、ピー」とけたたましいアラーム音が鳴り出し、その音に息子自身が驚いて目を覚ますせいもあって、数値はすぐに 上昇を始める。しかし、90を割ってさらに数値が下降を続けるときには、息子の頬を軽く叩いて起してやる。このサチュレーションモニターがあり、夜にその 数値を見守る私たち親がいる限り、おそらく息子は死ぬことはないだろう。そのことが次第に分かってくると、私たちは徹夜のローテーションをやめ、代わりに アラームの音量を上げて一緒に眠ることにした。

アラームが鳴るたびに飛び起き、モニターの数値と穏やかな息子の寝顔を確認し、また眠りにつく。そんな日々の中で、家族でイランに戻るという選択肢 は消えつつあった。それはいつしか私たち夫婦の間で禁句にすらなっていた。そんな矢先のことだ。ラジオ日本語課から、番組枠拡大と職員増員の決定が届いた のは。

「イランでこれだけ万全な支援が受けられるの?もしどうしてもイランに心残りがあるのなら、一人で行ってきてよ。それで気が済むまで取材して、1、2年で帰ってきて。それまでここで待っててあげるから」

10日間の検査入院の後も、私たちは毎月、息子を静岡こども病院の主治医のもとに通わせていた。この病院の受け入れ態勢は万全であり、息子の症状と 成長を、高い水準の子ども医療と、ほぼゼロに等しい医療費で、この先数年に渡って見守ってくれることを約束してくれていた。妻にとっては、日々の生活の中 で、息子を見守る体制がようやく整いつつあると感じられる頃だった。その体制をすべて手放すことに拒絶反応を示すのは、母親としては当然のことだった。

しかし、私は家族3人でイランに戻りたかった。もちろん、やり残したことが山ほどあるのは確かだが、何より、イラン社会で、妻とともに子育てをした かった。イラン社会の好ましい面をからだ全部で吸収して育つ我が子の姿を見たかった。だから、1、2年の単身赴任では、ほとんど行く意味がないと感じてい た。

その年の大晦日、私はラジオ日本語課にメールを送り、正規雇用の打診を辞退する旨を伝えた。この曖昧な立場のまま、年を越したくなかったのだ。そし て新たな年が明け、すがすがしい顔で、「昨夜メールで断ったからね」と妻に告げた。これで私たち家族はようやく前に一歩進める。妻も安心したことだろう、 と私は思った。

ところがその翌朝、妻から思いもかけない言葉を聞かされた。

「みんなでイランに行くよ。昨夜ラジオ日本語課にメールしといたから」

辞退を撤回させてほしいと自分でメールを送ったのだという。私は激怒した。悩みに悩んでようやく決断し、やっと頭を切り替えたばかりだというのに!

「だって昨日、『断ったからね』って言った後ろ姿があんまりにも寂しそうだったから・・・・・・」

妻は、私がイラン行きを断念する決断を下したことで、初めてイランで暮らすことをイメージしてみたという。イランで息子を育てていくのは本当に不可能なことだったのだろうかと。

息子を10日間の検査入院から退院させる際、私も妻も、自宅で安全に息子を見守っていけるのかとても不安だった。そのとき主治医の先生が私たちに告 げたのは、「脳幹は成長とともに完成されてゆき、いずれ睡眠時の無呼吸もなくなるだろう。大切なのは、親として覚悟を持って見守っていくことです」という ことだった。私たち夫婦が自分の判断で退院させ、万が一のときには人工呼吸で蘇生させる。そしていつの日か、自分たちの責任と判断でサチュレーションモニ ターを取り外す。そう覚悟を決めて自宅に引き取ったのだった。

「大事なのは親の覚悟でしょ。もしかしたらイランでもやっていけるかもしれない。でも、漠然とした不安の中で、そんなことを考えようともせず、私はあなたの人生や家族の未来を潰したんじゃなだろうかって昨夜は悩んで・・・・・・」

私は頭を下げ、妻に感謝した。

息子の症状を理解してくれる主治医と、人工呼吸でも蘇生しない場合、緊急搬送させる最適な病院を見つけること。それを条件に、妻はイランに戻ることを承知してくれたのだった。

こうして、その年の2月、私は一足先にイランに向けて出発した。

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