◆イラン国営放送外国人独身寮でイラン生活を再開
妻子を日本に残し、単身、10カ月ぶりにイランに渡った私は、アパートが見つかるまでの間、イラン国営放送の外国人スタッフ用独身寮に身を寄せるこ とになった。そこはテヘラン中心部に立つ古いアパートの1フロアーで、広々とした3LDKに、ナイジェリア人、アフガン人、カザフ人、インドネシア人の外 国人スタッフばかりが暮らしている。部屋代はタダみたいなもので、男ばかりの殺風景この上ない寮だ。
初日、職場からこの寮まで一緒に付き添ってくれたのは、カザフスタンから来て、ラジオ・カザフ語課に勤めるイェルケターイーさんだ。物静かで紳士的 な青年で、私同様、かつてイランで暮らし、今は故国に帰っている奥さんをまたイランに呼び寄せるまで、この寮で仮り暮らしをしているのだという。
彼はイスラム教スンニー派だが、シーア派の国イランに留学し、今はこうしてラジオ局で働いている。そのことについて聞くと、彼は表情一つ変えずこう答える。
「同じイスラム教徒だから、別に学ぶことはそんなに変わらないよ。でも、スンニー派の国へ留学したやつらは、きっと一生シーア派のことなんか考えないだろうね。イスラム教徒として、シーア派のことをよく知ることが出来て良かったと思うよ」
長い長い確執の時代を経て、今はイラクで殺し合いすら行われるシーア派とスンニー派。彼のような柔軟な思考も存在するのだと驚かされる。
寮に着くと、二人のインドネシア人が出迎えてくれ、ちょうど届いていた組み立て式ベッドと毛布を部屋に運ぶのを手伝ってくれた。
私があてがわれた部屋にはナイジェリア人の先客がいた。コーモーさんといい、テヘラン南部の宗教都市コムの大学で神学の学位を取り、今はラジオ・ハ ウサー語課に勤めている。ハウサー語はナイジェリアとその周辺諸国の主要言語だ。イランはナイジェリアへのシーア派布教に力を入れており、ハウサー語によ る短波放送もその一環である。
年より若く見え、気さくな性格のコーモーさんに、私は最初から敬語も使わず話していたが、後になって私よりずっと年上の42歳だと知った。
「コムで神学の学位を取ったのなら、聖職者になれるんじゃないの?」
「いや、大学の神学部っていうのは、坊さん養成コースと単なる法学部があって、僕は後者なんだ。まあ、ナイジェリアはイスラム教の国だから、イスラム学の学位があれば、つぶしが利くんだよ」
コーモーさんは、学生のときから中国の古代宗教について調べているという。コムの大学のイスラム学部では世界中の宗教について学ぶ講義があるそうだ。感心する私に彼は言う。
「いまは中世じゃないんだ。僕と君がこうして同じ部屋で生活するように、いろんな国や宗教と付き合うために勉強しなければ」
これも後になって知ったことだが、コーモーさんは4人の子持ちでコムに妻子を残してきているという。いい物件が見つかれば、妻子を呼び寄せ、いずれはこの寮を出て行くつもりらしい。それまで彼とは楽しくやれそうだ。
*
イランに着いた翌日から、ラジオ日本語課での仕事は始まっていた。午前11時ごろに出勤し、午後5時からの生放送に備え、翻訳作業をこなす。その 後、担当する制作番組の翻訳やリスナーへの返信作業を行っていると、夕食を取る間もなく、あっという間に夜10時を回ってしまう。帰りは職員用の乗り合い タクシーで寮のそばの交差点まで送ってもらう。そこから寮に着くまでの夜道、開いている店はキオスクぐらいしかない。店番の16歳の少年と顔見知りになる と、毎晩そこで小さなパンケーキとコーラを買い、夕食の代わりにするのが日課となった。
アルバイトのときとは異なり、思っていたよりもラジオの仕事は忙しかった。仕事の合間を縫って、歩いて10分もかかる総務課のビルへ何度も足を運ん では、雇用契約や妻子のビザの手続きを行った。夜10時まで残業しても、翻訳を寮に持ち帰る日もざらだ。おまけに週休はわずか1日。アパート探しや、妻と 約束した病院探しに時間を割けるとしたら、朝、出勤前の2、3時間しかない。
幸い、まだ抜けていない時差ボケのせいで、早起きは苦にならなかった。朝7時に寮を出ると、テヘランで評判の良いいくつかの病院に目星を着けつけ、その周辺地区の不動産屋を回ってみた。家賃相場はこの1年でずいぶん上がっていた。
ある不動産屋の男は、家賃が上がったのは経済制裁のせいだと言い、アメリカの圧力でアーザデガーン油田を手放した日本を非難した。だが、ほかで聞い た話では、市がアパート建設許可の申請費用を引き上げたり、コンクリートなどの建築資材を業者が売り惜しみしたり、アフガン人の不法就労者が減って建築資 材の生産が滞ったりしたことが複合的に作用して、結果として家賃相場が上がっているという話だった。アパートの家賃だけではない。タクシー代であれ、他の 商品であれ、何かの値上がりは全て「経済制裁のせい」で片付けてしまう人を多く見かけた。
それは、最近行われた国会選挙のために、政府が打ったプロパガンダのせいだろう。職場で訳す記事の中にも、政府の経済失政を非難するどころか、「偉 大なるイラン国民は覇権主義国による制裁を自らのチャンスに変えている」などとして、ただただ自国を称賛する内容のものが目に付くようになっていた。
そうした耳に心地良い言葉をすんなりと受け入れてしまう人びとがいる一方で、政府や社会への不満を爆発させる若者たちもいる。つい最近、テヘラン市 西部のアリアシャールでは、服装の乱れた女の子を風紀警察が無理やり連行しようとした際、女の子の腕が脱臼し、その警官を周囲の若者が袋叩きにしたとい う。また、国会選挙の結果に抗議して地方の改革派支持者らが暴徒化したというニュースも聞いた。テヘランではガソリンがクーポン制になってからガソリンス タンドで小さな暴動が起こっていた。何かきっかけさえあれば容易に暴動に発展する、そんな危うい空気がこの国に蔓延しつつあるのを感じた。
足を棒にして不動産屋を回り、その後、ラジオでの仕事を終えて、夜遅く寮への道をたどる。ゴミの回収車が後ろから追い越してゆく。回収車は停まるこ となくゆっくりと進み、清掃局員の若者二人が、ひょいひょいと往来の車をよけながら、道路わきのゴミを回収してゆく。私など道路一つ渡るのも未だに一苦労 だというのに、たいした仕事だと感心する。
いつものキヨスクに顔を出すと、いつもの少年が「金曜なのにあんたも仕事?」と声をかけてくれる。ふと、この少年の未来はどうしたら開けるのだろうかと考えてしまう。タバコを一本買い、近くのベンチで一服してから寮に戻る。
寮では、アフガン人のヌーリーさんがリビングで一人、テレビを見ていた。「疲れたよ」とぼやく私に彼が言う。
「お前はいつも疲れたとため息ばかりだが、見ている人間にもお前自身にも良いことはないぞ」
確かにそうだ。ここに帰ってくると、私は誰かれかまわず「疲れた」とぼやいている。そんな言葉を聞いて、嬉しい人間はいない。
休日が少ないなどと愚痴を言っても始まらない。それどころか、自分の思い通りに出来る数年間を得たのだ。せっかく与えてもらったイランでの時間を、どのように過ごし、何を目指すのか、明確にしなければならないと感じた。