脳幹の未発達による睡眠時無呼吸の疑いが濃い息子のために、当初は、優れた小児神経科医の先生がいて、かつ深刻な呼吸停止が起こったときの搬送先と して好ましい病院を見つけなければならないと考えていた。つまり、普段から息子のことをよく把握してくれている先生に緊急時も見てもらわなければならない と思い込んでいた。
ところが、次第に分かってきたのは、イランでは、多くの医師、とくに腕のある医師は、自分のクリニックと大病院を、曜日や時間によって掛け持ちしており、常に病院にいるわけではないということだ。
どうしたものかと悩んだ結果、通常の外来フォローと緊急時の病院を分けて考えることにした。緊急時、つまり人工呼吸でも呼吸が戻らない場合は、主治 医とは関わりなく、気管挿管などによるCPR(救急蘇生措置)とその後の集中治療をしっかりやってくれる病院に搬送すればいい。
テヘラン市内には国立、私立合わせて無数の病院があり、そのなかからいくつか評判の病院を候補に絞り、一軒一軒を訪ねてみた。
CPR室が分かりやすく、かつ入りやすく、救命士とすぐコミュニケーションが取れる病院が望ましかったが、病院によってはCPR室周辺が患者で溢れ かえっていたり、受付の対応が悪かったり、長時間待たされている患者が怒って騒いでいたり、あるいは、好ましい病院なのに、繁華街にあるため周辺が常に渋 滞しているなど、「ここは」と思える病院はなかなか見つからなかった。
それはひとえに、私が言葉の不得手な外国人だからというのもあるだろう。息子を病院に担ぎ込むという最悪な場面で、一秒でも早く状況を救命士に伝え、蘇生 措置を開始してもらう。外国人の私にそれが100パーセント可能なのかを問うたとき、不安を覚えるような病院ではだめなのだ。
職場に向かうべく、バスに乗り込む。
病院も決まらず、主治医も見つからず、アパートも決められない。妻子のビザもまだ発行されず、すべてが足踏みをしている状態だ。いったいいつになったら家 族3人イランでの新生活を始められるのだろう。いつになったらジャーナリストとしての活動を開始できるのだろう。陰鬱とした気持ちで車窓を眺めていたら、 前に座る青年がおもむろに私の方へと振り返り、穏やかな顔でこう言った。
「風が来るね......、春の風が」
窓からは、まだ少し冷たい風が車内に吹き込んでくる。栗色のカールを風になびかせながら、二十歳前と思われるその青年は、それだけ言うとまた前に向き直った。
(なんという心の余裕だろう)
イランの、そしてイラン人の持つ良きもののすべては、この「余裕」から生まれているのではないかと思う。私は、初めてこの国を訪れた十数年前から、 きっとこの「余裕」に惹かれ、今はその為にこの国で子育てをしたいと望んでいたのではなかったか。私には一生真似の出来ないこの「余裕」を、生まれて間も ない息子の心に、自然なものとして備えてあげることはできないものだろうかと。
春の胎動のように、そのうちすべてが動き始めるだろう。名も知らぬその青年に、私は黙って礼を言った。
その日の翻訳は、図らずも3日後に訪れるイラン正月ノールーズの特集記事だった。
春の再生を祝うノールーズは、民衆による農業の祝祭が起源とされているが、イスラムの「命の復活」の概念と重なり、決してイスラムと相反するものではなかったことから、イスラム化以降もイランの地で連綿と受け継がれて今に至るという内容だった。
しかし、春の生命の再生はむしろ仏教の輪廻に近いものだ。イスラムの来世での復活は一度切りであり、繰り返されない。にもかかわらず春の祝祭ノー ルーズを含めたイランの諸々の慣習を取り込み、ユダヤ教、キリスト教を受け入れ、ギリシャ哲学を飲み込み、消化した黎明期のイスラムには、「しなやかさ」 という言葉以外浮かばない。
その晩、私は、コモーに聞いてみたいことがいろいろあり、彼の帰りを待った。しかし、彼は寮に戻らなかった。ノウルーズ休暇を家族と過ごすため、家 族の暮らすコム市に行ったと翌朝聞かされた。そして正月休暇が明けると、そのまま新しいアパートに移っていった。彼と過ごした晩は、気まずい言い争いをし たあの夜が最後になってしまった。