◇異議噴出の怖れ 「進展のため支援」なら透明化必要
5月29日、拉致被害者を含む全ての日本人の調査を約束した日朝合意文が発表された。拉致被害者の帰国や安否確認まで紆余曲折が予測されるが、「火種」になると注目されているのは、「速やかに実行に移す具体的な措置」と明記された日本による「人道支援」である。支援とはいえ、これが金正恩政権に支払う再調査の「見返り」であることは言を俟たない。その中身は何なのか、拉致問題を進展させるために、政府は国内外にしっかり説明する必要がある。
日朝間の合意文書の最後の七項目に、さらりと言及されているのは次の一文である。
「人道的見地から、適切な時期に、北朝鮮に対する人道支援を実施することを検討することとした」
だが、合意文にはその中身も、額面も、支援の時期も明記されていない。なぜか。それは、日朝間で「人道支援」の具体的内容について合意に至っていないか、合意したけれど、日本国内と国際社会からの反発を恐れて、あえて曖昧な言い回しにしているかのどちらかだと思われる。
合意文を読めば、安倍政権が「拉致進展の対価」を払うことを決めたのは、誰の目にも明らかだ。六月後半に北朝鮮当局による再調査が始まる。その後で、北朝鮮からはもちろん、日本国内からも、この対価を巡って強烈な異議が出される可能性がある。後でもめないためにも、政府は早く「人道支援」の中身を明らかにすべきである。
外交とは相手のあるものである。日本が望むだけでは事態は動かないし、北朝鮮側は利益が得られるから日朝協議に応じた。筆者は「拉致進展の対価」を支払うことに基本的に賛成である。ただし、それは中身の妥当性と透明性があってのことだ。合意文に書かれていることだけでは何もわからない。これから人道支援という名の「見返り」について、多くの異議が出されることになるだろう。予想される論点を整理したい。
論点(1) 拉致犯罪の進展に対価を払うことの是非
「日本人拉致は主権侵害であるから、原状回復を北朝鮮側が履行するのは当然のことであり対価を与えるのはおかしい」
小泉政権時の02-04年の対北交渉の渦中で激しく提起されてきた原則的意見である。
一方、現在「被害者家族の高齢化が進んでいて時間の猶予がない。ある程度の対価を渡すのは仕方がない」
このような考えが社会に広く存在するのも事実だ。外交は相手のあることである。北朝鮮側は、利益が得られなければ拉致問題を進展させないに違いない。政府は「対価の支払い」であることを曖昧にせず立場を説明すべきである。
論点(2) 「見返り」の中身は何か、額面はいくらか
日朝間で、何を、どれぐらい支援すると合意したのか? あるいは協議中なのか? 現金支給はあるのか? 政府は明らかにすべきである。
現在の局面から予測するに、政府認定の拉致被害者と行方不明者が数名ずつ帰国する可能性がある。また「死亡」「不明」等の安否情報が北朝鮮から発表されるはずだ。その結果に対する「見返り」の額が、「妥当なのか、高すぎるのか」が、必ず論じられるだろう。
筆者が取材した政府関係者、外国外交官たちの証言によれば、安倍首相は政権発足間もない12年度初めから、北朝鮮と拉致問題に関する交渉を指示し、水面下で秘密協議が続いてきた。秘密交渉は2013年2月の北朝鮮の核実験強行にもかかわらず続けられた。ある政府関係者によると、夏頃には「大体の大枠は決まり、あとは見返りの金額交渉。それを詰める段階にまで至っている」という急進展ぶりだったという。
問題は支払いの方法だった。北朝鮮は現金を欲したが、経済制裁している以上それは簡単ではない。日朝間で、直接の現金支払うのではない「代替案」が相談されてきたという。
それは何か? コメなのか? 第三国を通じた迂回支払いが検討されたという情報もあった。事実なのか?
再調査開始で協議は合意したのであるから、支払いの方法も明らかにされねばならない。
約束されたのは人道支援である。であるから現金支払いは不適切であり、普通に考えると物資提供ということになるが、その中身は何か? 額面はどれぐらいになるのか?
ひとつの目安は、小泉政権時の食糧支援だ。04年に小泉政権はコメ25万トンと医療品、合わせて600万ドル相当の提供を決めている(ただし、北朝鮮から送られた横田めぐみさんの遺骨が鑑定で「ニセ」とされて、コメ支援は半分で中断された)。
例えばだが、中国産の白米25万トンは、質にもよるが現在の相場でざっと100-150億円相当だ。中国産トウモロコシならこの半分以下である。食糧の供与が、現在の北朝鮮に対する人道援助としてふさわしいか、大いに疑問がある。理由は後述するが、「人道的見地」からの支援と合意文には明記されているのだから、中身は食糧よりも乳幼児への栄養食等がふさわしい
論点(3) 拉致に対する対価と、遺骨・日本人配偶者などの問題の対価を区分しているのか?
この度の日朝合意では「昭和20年前後に北朝鮮域内で死亡した日本人の遺骨および墓地、残留日本人、いわゆる日本人配偶者」を含めた包括的かつ全面的な調査をするとしている。つまり、拉致問題、行方不明者問題と、遺骨と他の在朝日本人の問題の「抱き合わせ」である。拉致以外の問題が調査の対象となったのは日朝協議の大きな成果である。期待する人たちも多く進展させていかねばならない。そして日本による植民地支配の被害に対する償いを協議するきっかけにしなければならないと思う。
2012年8月に始まった死亡日本人の埋葬地探しと遺骨収集作業は、北朝鮮側が誠意を持って当たってくれたという評判が多い。北朝鮮側も経費負担が少なくなかったはずである。今後、遺骨の収集や日本への引渡しについては、経費の支払いが議論されることになる。また、その他の残留日本人及び孤児が日本に渡航するとなれば経費もかかる。日本側には、当然経費精算の義務がある。
しかし、これらの経費支払いの問題と、拉致問題の進展を抱き合わせにして「見返り」として一括支払いをするようなことはあってはならない。拉致問題と非拉致事案ははっきり区分し、遺骨収集等々の経費は明細を示して精算されるべきだ。
遺骨収集事業に関しては、すでにその利権をめぐる動きが日本国内で活発になっているようだ。怪文書も飛び交っている。拉致問題の対価であるのに、非拉致事案の経費と一絡げにし、まるで「抱き合わせ販売」のようにして、現金を北朝鮮側に渡す、そんな疑念が生まれないように、両者の区分を明確にして「明朗会計」を徹底すべきである。
論点(4) 支援に対する国際社会の憂慮
昨年2月に金正恩政権が実施した核実験に対して、現在、国際社会は安保理決議を経て経済制裁中である。これは、大量破壊兵器関連物、ぜいたく品の輸出禁止と、大量破壊兵器関連の資金移動の禁止、大量破壊兵器関連の団体個人の資産凍結である。
今回の日朝合意で、日本政府は独自の経済制裁を解除していくことを約束した。この人道援助名目の「見返り」供与が、安保理決議に基づいて取っている制裁措置の実効性を弱めるのではないか、そんな憂慮の声が韓米から上がっている。
政府は人道支援名目の「見返り」の中身が何であり、解除していく独自制裁と、安保理制裁の線引きを明確にすべきである。現金供与が後者に抵触するのは明らかだ。前述③のような形で現金支払いがあるのではないか、韓米は疑念を持っているようである。
食糧の供与についても、間接的な資金供与と同様の効果がある。なぜなら現在の北朝鮮を食糧不足と捉えるのは適切ではないからだ。圧倒的に足りないのは外貨である。
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