先ごろ朝日新聞が朝刊第一面に独占スクープとして掲載した「吉田調書」。東京電力福島第一原発の事故当時、同原発の所長であった吉田昌郎さん(故 人)が、政府事故調査委員会の聴取に応じて記録されたこの吉田調書には、事故当時の発電所内部の緊迫した状況が克明に記録されている。この吉田調書につい て、京都大学原子炉実験所・助教の小出裕章さんに聞いた。(ラジオフォーラム)
● 生きるか死ぬか、瀬戸際の記録
ラジオフォーラム(以下R):この吉田調書を巡って様々な問題が指摘されていますが、小出さんはどのようにご覧になっていますか。
小出:私自身は、あの当時の事故の経過を、注意深く情報を集めながら判断してきましたので、吉田さんが調書に応じて話されたことの内容自身は、特別不思議なことでも何でもないと思います。
ただ、今改めて吉田さんの調書を読むと、当時が本当に緊迫した状態だったのだなと。3年が経って皆さんすっかり忘れてしまっているように私には思え るのですが、本当に酷い事故があの当時起きていて、吉田さんも含めて生きるか死ぬかの瀬戸際で、何日もの苦闘を続けていたということが、改めてひしひしと 伝わってきました。
R:当時、所員の9割が福島第二原発に退避し、現場には1割ぐらいの人達しか残っていなかった。その時に、1号 機・2号機・3号機で立て続けに色々なことが起きてくるわけですが、当然、対応ができない。吉田さん自身がこの調書の中で、「チェルノブイリ級ではなくて チャイナシンドロームだ」というような感想をもらしていると朝日は報じています。つまり、チェルノブイリよりさらにひどい事が起きている、と考えていたわ けですね。
小出:はい。吉田さん自身はそうなるかもしれないという危機感の中で、どうすれば所員を少しでも被曝から守れる か、そして、一方では何としても事故を終息させなければいけない、という本当に二律背反の中で、一刻一刻どうすればいいのか考えていたのだと思います。東 電本社が全然頼りにならないという中で、彼は自分がやらざるを得ないという立場だったと思います。
R:あのとき東電本社では撤退するという話がありました。結果的には吉田さんは頑張ったのですけども、もし皆が逃げてしまっていたとしたら、どんな事になったのでしょうか。
小出:吉田さんの調書の中にもありましたけれども、あの時、注水をし続けなければいけないということで、1号 機・2号機・3号機、あるいは4号機に水を入れようとしていたわけです。なんとかその作業を維持できたからこそ、今の段階でとどまっているわけです。あの とき福島第一原発の作業員がみんな逃げてしまっていたら、注水は全くできなくなっていたでしょう。これまででも出てきた放射性物質は大量ですけれども、恐 らくそれ以上の放射性物質が吹き出すということになっていたと思います。
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