オホーツク海で魚雷3発を受けて沈んだ輸送船「白陽丸」。1400人余りが犠牲になった
オホーツク海で魚雷3発を受けて沈んだ輸送船「白陽丸」。1400人余りが犠牲になった

 

太平洋戦争では、北はアリューシャン列島から南はインドネシア、ニューギニア。東はマーシャル諸島から西はインド洋、ビルマまでの海域で戦争が行われた。原油や鉄鉱石などの天然資源は外国からの輸入に頼らざるを得ない。

さらに、大勢の兵士や武器弾薬を戦場へ運ぶのもすべて船を使わねばならなかった。だが、貨物船の船底は鉄板一枚だった。しかも、十分な護衛もなしに次々と戦場への輸送の航海についたので、米軍の潜水艦や戦闘機などに見つかって次々と沈められていった。

戦後、日本政府が発表した被害は、官・民一般汽船3575隻、機帆船2070隻、漁船1595隻の計7240隻が海の藻屑となった。沈没した船とともに戦死した乗組員は6万601人。そのうち、14歳の少年船員も987人が犠牲になっている。

岡村さんは「輸送船が次々と沈没し、船員も戦死するので、国は急いで船員を増やす必要が出てきたのです」と切り出し、こう説明した。

「戦前の小学校には、尋常科6年と高等科2年という制度がありました。家庭の事情などで中学校や女学校へ進学できず、高等科を終えた子どもたちを海 員養成所で2、3か月教育しただけで輸送船に乗せたのです。人手が足りない、とにかく船を動かさなければならないという理屈で、何もわからない少年たちを 使う。まさに『消耗品』だったのです」

小林さんの兄は1928(昭和3)年生まれ。私の父親と同じ学年であることに気づいた。どんな夢を描いていたのだろうか。生きて帰れば、結婚して、子や孫にも恵まれていたかもしれない。だが、輸送船とともに沈み、70年たった今も冷たいオホーツクの海底で眠っている。

「せめて両親が空襲で死ななかったら、兄がどこで亡くなったのか、もっと早く知ることができたのにと思うと、悔しいですね」
そう言って小林さんは、資料館に展示された白陽丸の写真を愛おしそうになでていた。
【矢野宏 新聞うずみ火】

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