中国・重慶爆撃の遺族、馬福成さん(前列、右から2人目)は大阪大空襲の被災者らと交流、「戦争を繰り返さないためにも手を取り合っていこう」と、思いをひとつにした【撮影:矢野宏】
中国・重慶爆撃の遺族、馬福成さん(前列、右から2人目)は大阪大空襲の被災者らと交流、「戦争を繰り返さないためにも手を取り合っていこう」と、思いをひとつにした【撮影:矢野宏】

 

◆大阪大空襲の被災者らと交流

中国・重慶爆撃の遺族、馬福成さん(67)が来日し、5月24日に大阪市東住吉区長居で大阪大空襲の被災者らと交流した。旧日本軍に よる空爆で家族3人を亡くした馬さんは「悲惨な戦争を繰り返さないためにも手を取り合っていきましょう」と語りかけた。(矢野宏 新聞うずみ火)

重慶市は中国西南部最大の商工業の中心地。筆者が3年前に訪ねたとき、揚子江とその支流である嘉陵江(かりょうこう)に挟まれた中心街は高層ビルが林立し、市内のあちこちで建設工事が進められていた。

日中戦争のさなか、旧日本軍は中華民国の首都だった南京を陥落したあと、臨時首都となった重慶に対し、1938年2月から43年8月までの5年半に わたって空爆を繰り返した。南京から西へ2000キロ入った、険しい山奥にあるため、陸軍の地上部隊を投入できなかったからだ。

重慶市を含めた四川省全体への空爆を総称して「重慶空爆」と言い、中国側の資料によると、死傷者は10万人を超えると言われている。

来日した馬さんは重慶市から北へ400キロ、四川省の最北部にある松潘(しょうばん)県で暮らしている。海抜3000メートルを超える高地にある。

1941年6月23日午前11時過ぎ、日本軍の爆撃機と戦闘機30機が大規模な爆撃を加えた。家屋のほとんどが木造だったため、瞬く間に火の海に なった。松潘の市民500人近くが死亡し、700人ほどがケガをし、住民にとって大事な財産である家畜3000頭も死んだという。

この松潘爆撃で、馬さんは祖母(享年55)と伯母(同28)、その息子で当時4歳だった従兄を亡くした。3人がいた家を爆弾が直撃し、畑に出ていた 馬さんの祖父や両親たちがガレキの中からバラバラになった3人の遺体を掘り起こした。一瞬にして家財産を失った一家は極貧生活を強いられた。

旧日本軍による重慶爆撃、ナチスドイツによるスペインのゲルニカ爆撃は、その後の東京や大阪をはじめとした日本全国の都市への空襲、さらには広島・長崎への原爆投下へとつながっていく。

馬さんら重慶爆撃の被害者や遺族ら188人が日本政府に対して謝罪と賠償を求め東京地裁に提訴したのは2006年3月。旧日本軍による無差別爆撃 は、軍事目標以外の空爆を禁じた当時の国際法に違反していると訴えており、現在も係争中である。日本政府は、日中共同声明により中国政府が戦争賠償の請求 を放棄したとしている。

馬さんは5月21日、東京地裁の法廷に立ち、
「当時の松潘県には軍事施設もなかった。一般市民を無差別に狙った爆撃で、国際法に違反する非人道的な戦争犯罪だ。何の罪もない肉親が殺された私たちの悔しさ、憤りを理解してほしい」と訴えた。

市立長居障害者スポーツセンターで開かれた交流会では、大阪大空襲で全身に大やけどを負った浜田栄次郎さん(84)が、
「私たち大阪大空襲の被災者に対して、戦争を起こした日本政府からは謝罪も賠償もない。一言、謝ってほしいと思い、裁判を起こした。重慶へ空爆が行われていたことは知らなかった。日本が犯した空襲にも向き合うことが大事だと知った」と語った。

馬さんは、
「私たちが恨みに思っているのは当時の日本政府であり、軍国主義者。戦争の被害を受けるのは私たち国民だ」と述べ、交流を深めた。
【矢野宏 新聞うずみ火】

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