辺野古沖。海上ボーリング調査用の単管やぐらに身体をくくりつけて抵抗する人も(2005年9月 栗原佳子撮影)

◇「勝つ方法はあきらめないこと」
簡単に経緯を振り返りたい。日米は1996年、普天間基地返還に合意した。だが、県内に代替ヘリポートを建設するという条件付。いくつもの候補地が浮かび、残ったのが辺野古だった。97年、名護市では市民投票が行われ、「ノー」の意思が明確に示された。しかし、当時の比嘉鉄也市長は民意に反し受け入れを表明、そして辞任する。
2004年4月、政府は抜き打ちで海上ボーリング調査を強行しようとしたが、反対住民らはカヌーで海に漕ぎだし、作業用に設置された単管やぐらに座り込んで抵抗した。05年9月、ついに単管やぐらは撤去され、一本の杭も打つことなく、ボーリング調査は事実上中止に追い込まれた。
しかしその後も、国は「辺野古」に執着し続けた。米軍再編協議の中で日米は「移設」先にキャンプシュワブ沿岸部を決定する。「移設」とはいうものの、実質は、V字型の滑走路に軍港や装弾場も備えた最新鋭の基地をつくる計画である。
今回、立ち入り禁止海域が大幅に広がったのも、ボーリング調査を「阻止」された側にすれば「苦い教訓」からだ。一方、この阻止行動当時から続くテントでの座り込み。重ねた日数を示すボードは、この15日で「3771日」を示していた。テント入口に掲げられた看板には、「勝つ方法は、あきらめないこと」とあった。(つづく)
【栗原佳子】
<辺野古ルポ>新基地着工 生命の海に杭打つ国(中)
<辺野古ルポ>新基地着工 生命の海に杭打つ国(下)

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