放射能による被曝を避けるために線量を知ることは重要だが、その線量を測定する方法が変わるかもしれない。環境省は2014年8月、「これまでの空間放射 線量から、より実態に近い個人被曝線量に基づいた除染に転換すべきだ」という報告書を発表した。なぜ、これまでの空間線量を測る方法から転換しようとして いるのか、京都大学原子炉実験所・助教の小出裕章さんに聞いた。(ラジオフォーラム)
◆個人線量を測るのは実質無理
ラジオフォーラム(以下R):まず、空間放射線量と個人被曝線量の違いについて教えてください?
小出:空間放射線量というのは、それぞれの場所でどの程度の放射線が飛び交っているのかを測定したものです。例えば、学校の教室でどれだけ放射線が飛び交っているのか、校庭に出ればどれくらいか、あるいは家庭では、道路ではどうかを測ったものが空間線量です。
一方、個人の被曝線量というのは、一人ひとりに放射線の被曝量を測る測定器を持たせて、それがいくつの値になるかということを調べるわけです。ただ し、本当にずっと一人ひとりが放射線を測定する機械を肌身離さず、1日24時間365日持っていられるかと言えば、恐らく私はできないだろうと思います。 ですから、個人の被曝線量を測定するということ自体が、まず無理だろうと私は思います。
R:個人の被曝線量というのは具体的にはどうやって測定するのですか。
小出:私自身は毎日、「ガラスバッチ」という放射線測定器を身に着けて仕事をしています。同じように、個人の被曝量を計るための測定器を一人ひとりにずっと持っていてもらうという形で測定します。
R:ずっとというのは、本当に24時間ずっとということですか。
小出:そうです。本当であれば、そうしなければ意味がありません。でも、私の場合、放射線の管理区域に入る時にはもちろん持っていきますけれども、そうでない時には、肌身離さず持っているということはほとんどできないわけです。
R:そうですよね。生活の中で常に身につけておくというのは苦しいですね。
小出:恐らく私でもできないようなことですから、普通の方々が丸1日24時間持ち続けるということは、まず、できないはずです。1年365日ずっと持っているということもできないだろうと思います。
◆できる限り小さな数字を見せるため
R:環境省が空間放射線量から個人の被曝線量へと方針転換をする目的は何だとお考えですか?
小出:福島の事故の後、これまではあちこちで空間放射線量を測ってきました。どこで何時間その場にいると、どれだけ被曝をしてしまうのかという事を 推定しながらきたのでした。そうやって推定してしまいますと、人々の被曝線量を1年当たり1ミリシーベルトに抑えることがもうほとんど出来ないということ が分かってきました。そのため国は、一人ひとりの被曝線量を測って、それが1ミリシーベルトを下回ればいいことにしてしまおうと考え始めたのです。
R:環境省は除染の目標基準を大きく緩和してしまっていますね。
小出:はい。これまでは、日本の普通の方々は、「1年間に1ミリシーベルト以上の被曝をしてはいけない」と定められていました。しかし、福島第一原 子力発電所の事故というものはあまりにもひどい事故であったために、福島県を中心として、到底それは守れないという状態になってしまったのです。そのた め、日本の政府は、今はもう守れないのだから、1年間に20ミリシーベルトを超えない地域であれば、人々が住んでも構わないし、一度逃げた人たちにもそこ に戻るよう指示を出しているわけです。
でも、それはあまりにもひどいことだということで、これまで原子力を推進してきた人たちの中にも、やはり納得しない人たちがいる。そのために、でき る限り早く1年間に1ミリシーベルトを下回るように、除染というものをやろうということになっていたわけです。けれども、除染はほとんど効果がないので す。
除染というのは、「汚れを除く」と書くわけですけれども、汚れの正体は放射能であって、人間には放射能を消す力はありません。そのため、言葉の本来 の意味で言えば除染はできないのです。私たち人間にできることは、人々が生活している場の一部から放射性物質をはぎ取って、どこかに移動させるということ だけです。けれども、もう大地の全部が汚れてしまっているわけで、除染ということ、私は除染は正しくないと思うので「移染」つまり「汚れを移動させる」と いう言葉を使っているのですが、移染できる場所というのも、本当に限られた場所しかないのです。これまで環境省等がやって来た、いわゆる除染活動というも のがほとんど効果が無いということが、すでに分かっているわけです。
そうなると、もう基準自体を引き上げるしかないだろうということで、1年間に1ミリシーベルトという基準すら変えたいと彼らは思っているし、出来る限り小さな数字が出てくるような測定の仕方をしたいと、彼らは思っているわけです。