◇「謎の日本人」
6月中旬、北朝鮮各地の取材協力者たちから続々報告が入り始めた。情報機関の国家安全保衛部が、平壌と地方都市で日本人の調査を始めているというものだっ た。調査の中心はいわゆる日本人妻だ。1959年に始まった在日朝鮮人の帰還事業では、9万3000人あまりが北朝鮮に渡ったが、うち7000人弱が日本 国籍者だった。
その多くは朝鮮人の夫について北朝鮮に渡った日本人妻及びその子供たちだ。日本人妻たちの多くは高齢で、亡くなった人も多い。保衛部の要員たちはこ のおばあさんたちのもとを直接訪れ、安否を確認するとともに、日本への帰国意思があるかどうかを尋ねていたのだ。この時は、北朝鮮側の「すべての日本人の 調査」の本気度は高いと確信した。
取材チームからの報告には奇妙なものがあった。帰還事業で渡った日本人妻とは別に、調査対象になっている日本人が地方にいるというのである。
「知り合いの保衛部の幹部に聞いたが、『ウソの名前で暮らしていたり、経歴のよくわからない日本人が何人かいて調査しているのだが、正直に答えないので難儀している』というんだ」。
取材チームのメンバーの一人は電話でこのように伝えてきた。つまり、地方都市に日本人が一般住民として暮らしていて、この度の日朝合意による調査対 象になっているというのである。私は当初、北朝鮮人の取材者たちが、何か勘違いをして頓珍漢なこと言っているのではないかと思った。北朝鮮における外国人 管理は徹底している。
ニセの名前?経歴不明?そんなことがあり得るのだろうか?しかし、報告が重ねられにつれ、自分の意思で北朝鮮に渡って暮らしている「謎の日本人」が 少なくないらしいことがわかった。そして、この「謎の日本人」こそが、日朝交渉の北朝鮮側の「隠し球」なのではないか、と考えるようになった。この「謎の 日本人」については後述する。
◇北の人たちは拉致を知らない
北朝鮮社会一般では、そもそも日本人拉致事件のことが、未だによく知られていない。日朝関係を揺さぶった日本人拉致犯罪について、政権が国民に対してまと もな説明も報道もしてこなかったためだ。多くの北朝鮮人を取材してきた筆者の実感から言えば、一般庶民の日本人拉致に関する認識というのは、「過去に工作 機関が連れてきた日本人がいて、それを返すかどうかでもめている」という程度のものである。
党や行政の幹部、中国に出てくる貿易関係者など、地位や仕事柄、接する外部情報に接する機会の多い人の間では、
「過去の交渉で、わが方が拉致日本人の安否情報を隠して紛糾した。日本側が経済制裁したために協議が決裂した」という程度の認識は持っている。筆者の印象では、上層に分類される人たちの多くは、日朝関係の進展を実利的な損得で捉える傾向が強い。
話は一年半前に遡る。2013年初め、私のもとに中国遼寧省から小包が届いた。中身は北朝鮮産の鉱物のサンプルで、中国の検査機関で受けたという成分表示 までついていた。小包を送ってきたのは中国人の取材協力者A氏。親戚訪問やビジネスで合法的に中国に渡ってくる北朝鮮の人たちと日常的に接触して情報収集 している。
A氏は知己の北朝鮮貿易マンB氏から、取引してくれる日本の会社を紹介して欲しいと常々頼まれていた。北朝鮮の鉱物を売りたいというのである。A氏 から連絡を受けた私は、経済制裁下で北朝鮮との貿易は日本当局が厳しく監視しているため迂回や偽装も難しく、手を出す商社はないだろうと答えた。それでも B氏はあきらめず、「せめてサンプルだけでも見て欲しい」と、A氏を介して小包を送ってきたのだった。数種類のレアアースのサンプルだった。
「日本と貿易がやりたいんだが、経済制裁でどうしようもない。日本人拉致は、もう世界中にすっかりばれた問題で失うものはないんだから、たかが十数人だし、とっとと日本に返して国交正常化に進んで賠償金もらうべきだ。平壌の貿易関係者はみんなそんな考えだ」
B氏は、そう語ったという。(続く) 2へ>>