-米軍の爆撃で負傷した市民を病院で取材しています。病院の人たちは非常に協力的でしたが、アメリカに協力している日本の記者という見方はされませんでしたか?
綿井:イラクに限らず、中東は親日の人が多いから、日本人に対しては悪意や敵意は持っていません。他の欧米人よ りは、日本人というだけでアドバンテージがある。当時のイラク人は総じて、みんな「撮れ撮れ」って言うんですよ。普通の家でもそうだけど、みんな子どもか ら大人まで写真を撮られることを嫌がらない。あの時は、混乱の中でも病院スタッフはすごく協力的でした。もちろん、その中には「何を撮っているんだ」「お まえは誰だ」と怒る人もいました。しかし、他の人たちが、自分が何者かを説明してくれたのが大きかったですね。
-この病院で、映画の象徴的な人物となるアリ・サクバンさんと、その後10年間交流する彼の家族と出会うんですね。
綿井:映画に出てくるあの病院に行ったのは、米軍バグダッド制圧の翌日なのですが、町に出て取材しようと思って いたら、ある市民が近寄ってきて、「バグダッド市内北部が大変なことになっている、今朝もまだ空爆をやっている。病院には負傷者が多数運ばれている」と聞 かされて、車で駆けつけたんです。その人が知らせてくれなかったら、あの病院には行けてなかったですし、アリ・サクバン家族とも出会ってないですね。そう いう意味で、偶然というか必然というか。制圧の翌日にあれだけ混乱しているところに自分がたどり着いたのは、その後の取材・撮影も含めて、何かの巡り合わ せを感じます。
-そもそもイラク戦争の取材を始めた時、一人の人物あるいは家族に焦点を当てて何かを撮ろうと考えていたんですか?
綿井:米国での9.11同時多発テロの後にアフガン攻撃がありました。あのときのアフガン取材の反省経験が大き いです。あの時は、空爆が始まった直後にアフガンに入りましたが、テレビメディアがほとんど入っていなかったので、テレビニュース番組の中継リポートをた くさんやりました。しかし、それに振り回されて腰を落ち着けた取材が出来なかったんですね。一日取材してはリポート、一日取材しては映像送ってというよう なことの繰り返しだった。結局あの時は、まとまった番組っていうのはほとんど作れなかった。それで、また同じことやってはだめだと思っていたので、イラク 戦争取材の場合は「攻撃される側から見た戦争」「バグダッド市民が見たイラク戦争」というテーマは最初から立てていました。しかし、ある特定の家族を追う かどうかは、最初から決めていたわけじゃありません。
-アリ・サクバンさんとその家族を追おうと思ったきっかけは?
綿井:米軍バグダッド制圧直後に、テレビ朝日系列「ニュースステーション」の中で、彼のことを最初にリポートを した時、大きな反響がありました。自分としては、その後の彼らがどうなったのかを知りたいと思ったのです。しかし、サクバンの詳しい経歴や彼の家族の歴史 を知るのは3ヵ月後からでした。バグダッドに行き、もう一回彼の自宅を訪ねた時に、「うちの一家は、イラン・イラク戦争ですでに兄2人、叔父2人を亡く し、自分は湾岸戦争の時はクウェート侵攻部隊に入れさせられた」と言うのです。その話を聞いて、この家族を取材すると、イラク人一個人の歴史だけじゃな く、イラク戦乱の歴史という大きな背景が見えてくるだろうと確信を持ったんです。その後も継続的に撮影を続けたんですが、そうすると彼の家族とも付き合い が生まれるし、カメラを回さないところで一緒に話もするから、友人としての交流も自然に出てきます。そんな積み重ねが続きました。
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