東日本大震災・福島第1原発事故から3年半。今年9月半ばに帰宅困難区域内の国道6号線が全線開通したが、原発事故収束の目処はまったく立っていない。南相馬市小高区で震災前から原発に反対し続けてきた漁師の男性に出会った。(栗原佳子 新聞うずみ火)
◆漁再開への道のり遠く
浪江町と隣接する南相馬市小高区は20キロ圏内にあり、昨年4月、避難指示解除準備区域と居住制限区域に区分された。6号線沿いでは津波で大破したコンビニや飲食店が放置され、雑草の中、車が1台裏返しになっていた。
小高区の志賀勝明さん(66)は海の近くに家を新築して数年で「3・11」に見舞われた。かさ上げが運命を分け、家は津波に耐えたが、3年半無人のままだ。
市内の借り上げ住宅に妻と2人。子どもたちは関東へ。避難生活の中で母は亡くなった。生業も失った。相馬双葉漁協請戸ホッキ会会長。請戸港は津波で破壊され、原発事故の影響で、漁再開への道のりは険しい。
志賀さんは震災前から一貫して原発反対を訴えてきた。1973年、福島第二原発をめぐる公聴会では漁師として反対意見を述べた。当時25歳。勉強会などで学び、原発の危険性に確信を持った。公聴会は発言者30人中21人が賛成派という不公平な構成だった。
第二原発建設差止訴訟の原告にも名を連ねた。漁業補償が陰を落とし、漁師仲間には「沖で何かあっても助けない」と言い渡された。漁師たちは仲間が遭 難すれば、仕事を投げ打って捜索に力を尽くす。「自分の身は自分で守らないといけないと思って、燃料や冷却水など念入りに準備して海に出ました」と志賀さ んは振り返る。
浜通りでは同時期、もう一つの原発計画が問題化していた。東北電力の「浪江・小高原発」。小高区(旧小高町)と浪江町をまたぐ計画で、当時の知事が 68年の年頭会見で発表した。農民ら地権者たちは反対同盟をつくり対抗。電力会社の壮絶な切り崩しにあいながらも最後の2人が首を縦に振らず、迎えたのが 「3・11」だった。東北電力は昨年3月、計画を白紙撤回した。
予定地はことごとく津波にのまれた。「もし原発が出来ていたら、福島第一原発より酷いことになっていたでしょう」と志賀さんは語る。(つづく)
【栗原佳子 新聞うずみ火】
福島・旧警戒区域ルポ(下)「希望の牧場・ふくしま」は今
【関連記事】
京大原子炉実験所 今中哲二さん講演~放射能汚染の現状(上)