1945年3月13日に大阪市中心部で起きた大空襲では4000人が亡くなった。その背景には国土防衛の為、空襲の最中であっても避難を禁じ、消火活動に あたらせる「防空法」があった。9月、大阪空襲訴訟に対する最高裁判決は上告を棄却した。原告の全面敗訴が決まったあとの記者会見で、父を失った森永常博 さん(81)=吹田市=は怒りを抑えきれなかった。(新聞うずみ火 矢野宏)
◆「国土防衛の戦士」~空襲の最中であっても「防空法」によって逃げられず
「お父さんが死んだ」
家は全焼しており、父親が道路に寝かされていた。
「空襲の夜、別れたときの鉄兜にゲートル姿のままで、まるで眠っているかのようでした。消火活動をしていましたが、火の手が強くなり、隣組の防空壕へ逃げ込み、窒息死したそうです。赤ら顔で口を閉じ、まだ温かかったのを覚えています」
森永さんはそこまで話すと、声を詰まらせた。
「叔母が懸命に胸を押さえて人工呼吸を繰り返すと、父の顔が膨れ上がってきて、父の口と鼻から血がにじみ出てきました。あとで、叔母から『あの血は肉親だけに見せる別れのあいさつやで』と教えられました」
遺体は母校の2階へ運ばれた。鉄筋の校舎が残っており、机を並べてその上に安置された。
「母は自分が被っていた絹の蒲団を父の遺体にかけ、『お父さん!』と初めて嗚咽しました」
大黒柱を失い、家も財産もなくしたため、生活は困窮した。母子は知人宅や親戚の家を転々とし、実家がある島根県へ移り住む。小柄で身体の弱い母親だったが、一人息子を育てるため、日雇いで肉体労働に出た。
高校2年の時、森永さんが進学したいというと、母は頭を下げて懇願したという。「ここまで頑張ってきたが......、頼むから高校卒業したら就職してくれ」
企業の中には両親がそろっていないという理由で願書すら受け取ってもらえないところもあった。就職難の中、知人の紹介で大阪市職員の採用試験を受け、1952年に就職する。
ところで、父はなぜ、一緒に逃げなかったのだろうか――。
大阪空襲訴訟の弁護団が裁判を通して明らかにした事実がある。当時の国民は「国土防衛の戦士」と位置付けられ、空襲の最中であっても「防空法」に よって逃げることを禁じられていた。 しかも、消火活動に当たらせるため、防空壕も命を守るための頑丈な避難所ではなく、一時的に退避するだけの場所だっ たのだ。
森永さんはいう。「戦争になれば国民の命が軽んじられる。戦争はどういう理屈をつけようがしたらいかんし、させたらいかん。人の命が大事にされる時代にしなければ」 【矢野 宏 新聞うずみ火】