阪神淡路大震災の発生から20年目を迎え、当時取材した被差別部落と朝鮮学校を訪ねた。震災を機に生まれた「隣人」との触れ合いは、地域に何をもたらしたのか。それは20年という歳月の中でどう変容し、今に至っているのか。(新聞うずみ火/矢野 宏)
◆ 朝鮮学校、交流今も
JR灘駅の南側、繁華街にほど近い中央区脇浜町にある神戸朝鮮初中級学校。在日コリアンの児童・生徒たちが通う学校である。応対してくれた金錫孝(キム・ソッキョ)校長は、「震災後も周辺の人たちとの交流は続いていますよ」と言って微笑んだ。
本棚から取り出したアルバムには、昨年10月に開かれた「第4回臨港線ふれあいまつり」で撮影された写真が何枚もあった。実行委員会には、周辺の町内会や自治会などと一緒に、学校の名前も入っている。
学校で開催される「愛校祭」バザーや運動会にも、地元の人たちが訪れてくれ、近くの西灘小学校との相互訪問も始まったという。
「人間同士の目を持って付き合っていただいています。とてもありがたい」
◆ お互いさまの精神
震災前、朝鮮学校は兵庫県下に13校あった。うち10校が被災し、東神戸朝鮮初中級学校(現・神戸朝鮮初中級学校)と伊丹朝鮮初級学校の校舎が全壊 した。東神戸朝鮮初中級学校の築33年の鉄筋4階建ての校舎は支柱や壁に亀裂が入り、コンクリートの廊下にも大きなひび割れがいくつもできていた。
朝鮮学校は、学校教育法第1条で定める「正規の学校」ではない。学校法人によって運営されている各種学校扱いである。それゆえ、小学校には初級学校、中学校には中級学校、高校には高級学校という名称を使っている。
教育課程は6・3・3・4制で、カリキュラムも日本に準じている。朝鮮の歴史や地理があり、授業は朝鮮語で行っている。もちろん日本語の授業もある。教科書は日本の教科書会社から版権を買い、朝鮮語に訳していたものを使っているという。
震災後、13校のうち4校が統廃合となり、東神戸朝鮮初中級学校も99年4月、西神戸朝鮮初中級学校の中級部を統合し、校名から東を取った。
震災直後、学校のグラウンドには150人を超す避難者がいた。100人ほどは近所に住む日本人だった。校舎は倒壊の恐れがあったため、児童らを送迎する30台のマイクロバスや乗用車の中で寝泊まりしていた。
その中に、灘区岩屋北町7丁目の町内副会長、北川嘉宏さんがいた。自宅は、幅5メートルの市道を挟んで朝鮮学校の向かいにある。地震で飛び出したも のの、避難所に指定された小学校までは歩いて30分ほどかかる。どうしようかと当惑していた時、朝鮮学校の教師から「うちの送迎バスを使ってください」と 声をかけられたのだ。北川さんはこの地区に住んで40年になるが、一度も足を踏み入れたことがなかった。
その日、北川さんは灘区役所に掛け合い、朝鮮学校を緊急避難場所として認めてもらった。指定されていないと、行政から救援物資の配給を受けられない からだ。北川さんが朝鮮学校に戻ると、生徒たちのオモニ(お母さん)たちがご飯を持ちより、おにぎりを作っていた。「これ食べてください」と差し出された おにぎりをみて、北川さんは驚き、「え、日本人やけどええんでっか」と尋ねると、そのオモニはこう言ったという。
「お互いさまやないですか」
北川さんは「あの夜、食べたおにぎりの味は一生忘れられへん。死ぬか生きるかというときに受けた親切ほどありがたいものはない」と語り、こうも言っていた。
「これからの日本を背負う若者たちには正しい歴史を知ってほしいなあと思いまっせ。そして、知り合うことで朝鮮人に対する差別もなくなっていく。私もそうでしたから」
北川さんは、その年の7月20日まで校門近くのテントで救援物資の配給にあたった。97年に校舎が竣工した時も祝辞を述べるなど、交流は続いたが、その北川さんも10年前に亡くなった。