子どもの頃の夢を尋ねると、思いがけない答えが返ってきた。
「私ね、外交官のお嫁さんになりたかったの」
そう言って、吉田栄子(はえこ)さん(79)=大阪府岬町=は、少しはにかみ微笑んだ。
「いろんな外国へ行ってみたかった」という夢は叶わなかった。空襲が、夢も平穏な暮らしも家族の命さえも奪ったからだ。(うずみ火新聞/矢野宏)

亡くした家族のことを語る吉田さん(うずみ火/矢野宏)
亡くした家族のことを語る吉田さん(うずみ火/矢野宏)

◆ 親族の家を転々と

吉田さんは1934年5月、大阪市浪速区で兄と2人の姉、弟の5人きょうだいの三女として生まれた。父は古布を集めて軍事用の頑丈な布を作る工場を営んでおり、弟家族4人も同居していた。

戦況の悪化に伴い、44年8月、吉田さんは大阪府岬町淡輪(たんのわ)に住む父方の親戚に「縁故疎開」する。当時10歳、精華国民学校の4年の時だった。

2カ月前、当時の東條内閣は「学童疎開促進要項」を閣議決定、8月から都市部の学童たちを郊外の農村部へ避難させた。親戚などを頼る縁故疎開を勧め、親戚がいない学童たちは農村部の寺などに「集団疎開」させた。

淡輪から自宅まで電車で1時間。当初、吉田さんは毎週土曜日に大阪へ帰り、翌日の最終電車で淡輪へ戻っていた。だが、両親と別れて淡輪へ戻ると、泣いてしまう。預かってくれている叔父夫婦に悪いからと、家に戻ることを禁じられる。

年が明けた45年3月13日深夜、274機のB29が来襲。この第一次大阪大空襲で4000人が犠牲になった。吉田さんの両親や姉2人、6歳の弟、 同居していた叔父一家も含め、11人中9人の死亡が確認された。吉田さんは叔父に連れられて大阪へ向かう。電車が市内に近付くと、一面焼け野原が広がって いた。

家も工場も全焼していた。恵比寿国民学校の運動場にはたくさんの遺体が並べられていた。トタン板が被せられ、顔が隠されていた。トタン板の下の遺体 を一つひとつ確認していくと、母が作った見覚えのあるくつ下をはいている足を見つけた。長女の初子さん(享年20)だった。銀行を辞めて精華国民学校で集 団疎開の世話係となり、滋賀県へ行っていた。3月に入って大阪へ戻り、空襲に遭ったのだ。

「悲しいというより現実に何が起こったのかわからないような状態で、呆然としていました」

さらに、避難する両親を見たという近所の人の証言から、喫茶店内から両親と弟、叔父夫婦、2人のいとこの遺体を見つけた。だが、遺骨は戻ってこなかった。

「空襲で道をふさがれた家族は喫茶店に逃げ込み、そのまま火に焼かれて死んだのでしょう。家族たちは空襲の被害に遭って無念の思いで死んでいったのだろうと思うと、本当に悔しくてなりませんでした」

悲しみと不安の中で、10歳の少女はこれまでの生活から一転、親戚の家を転々とさせられる。 泉南郡尾崎町(現・阪南市)の伯母の家へ預けられ、兄 が結婚して養子に入った先の実家へ引き取られた。中学1年の時に兄が離婚したため、大阪市阿倍野区の父の妹の家へ引っ越す。そこでの暮らしは貧しかった。

「遠足などでお弁当を開けるのが恥ずかしかった。サツマイモを刻んで炊いたものでした。親がいる子は美味しそうなお弁当で、羨ましかった」

翌年、叔母が病死したため、泉南郡に住んでいた母の弟に引き取られる。そこでも家事と育児に追われる。幼いいとこを背負って井戸水を何度も風呂へ運ぶのは重労働だったが、負い目もあって「叔母の顔色を見て先に動いていました」。

高校への進学を諦め、美容師の家に住み込みで働き始め、ようやく解放感を味わったという。

「戦災孤児ほど惨めなものはありません。親が健在だったら、まったく別の人生があったと思っています。戦後70年たっても心の傷は癒えることはありません。3月の命日が訪れるたび、身体に傷が一つひとつ入るような感じです。悲しいことが蘇ってきて、今もつらいです」

吉田さんは、姉が滋賀県のどこで集団疎開の世話をしていたのか知りたいと訪ね歩いている。「せめて、姉が生きてきた証を心に刻みたいのです」と。 (矢野宏)

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