後藤健二さんの殺害事件は、同じような取材を続けてきたジャーナリストたちに大きな衝撃を与えている。2012年8月には、やはりシリアで山本美香さんが武装勢力に射殺されており、戦争、紛争下での取材のあり方をめぐって、さまざまな議論が巻き起こっている。
「リスクを伴う取材であっても、誰かがやらねばならない。それがジャーナリストの仕事であり、報道機関の使命だ」という主張の一方で、「いくら取材であっ ても、拉致・誘拐など起きれば、政府や国民に多大な迷惑をかける。自粛すべきである」という意見や、いわゆる「自己責任論」など、批判的な見方も根強い。
政府の対応は危険地の取材、渡航を規制、管理する方向へ傾斜しているようである。自民党の高村正彦副総裁は後藤さんについて「どんなに使命感があっ たとしても、蛮勇というべきもの」と述べ、外務省はシリア行きを計画していたフリーカメラマンの杉本祐一さんに対して旅券を強制的に返納させている。
報道の自由か、国民の安全か。どちらを優先させるべきなのか、という議論にも思えるが、そもそもジャーナリズムの役割についてきちんと理解しておく必要もある。
戦争はジャーナリズムにとって、伝えるべきもっとも大きな出来事のひとつである。なぜなら、戦争は多くの人びとの財産や生命を奪い、社会を根底から 破壊していくからである。だからこそ、ジャーナリズムは戦争の原因や戦場の実情を取材して国民に知らせる責任を負う。もしジャーナリズムが戦争報道におい て十分な機能を果たせない場合、国民はその戦争の正当性について判断する材料を持つことができない。例えば、イラク戦争をめぐる報道はその一例といえる。
2003年3月20日、米軍によるイラク攻撃が始まったとき、日本の新聞、テレビの記者たちは全員、首都バグダッドから撤退しており、残ったのは 10名前後のフリーランスのみ。中には「自分の責任で残りたい」という記者もいたが、新聞、テレビ各社は、「記者の安全を確保できない」という理由でバグ ダッドからの退去を命じた。これにより、マスメディアは空爆にさらされるイラク市民の惨状を自らの手で報じることはできなかった。
4月9日、米軍のバグダッド占拠により、フセイン政権は崩壊。翌10日の新聞には「バグダッド陥落」の大見出しで、フセイン政権崩壊を喜ぶ市民の写 真などが大きく掲載されていた。イラク戦争は「独裁者からイラク市民を解放する戦争であった」という米国の主張を正当化するような論調が目立った。
しかし、現地で米軍のバグダッド入城を目撃したフリーランスからのリポートは、「米軍を歓迎する人はごくわずかです。歓迎する人はほとんどいませ ん」(2003年4月9日、テレビ朝日「ニュースステーション」)というものであった。マスメディアの記者は現場におらず、欧米の通信社やテレビ局から流 れる情報を下敷きに記事を書いたため、結果的に戦争を仕掛けた側の「情報操作」に踊らされてしまった面があることは否めない。もし日本の記者たちがバグ ダッドに残り、取材を続けていれば、イラク戦争報道のスタンス、伝え方も変わっていたと思われる。
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