◆ 訴訟対策でこっそり資料を改ざん!?
同様の事例はほかにもある。
2008年4月に発行された前掲の『職業性石綿ばく露と石綿関連疾患』増補新装版でアスベストによる肺ガンの労災認定についての記述がひっそりと変わっていたのだ。
同書のそれまでの版では、アスベストによる「肺ガンについては、1960年ごろから認定事例があり、それ以前から医学的には因果関係が明らかにされ ていた」とあり、1960~75年の間に計8件の認定があったことを表に示している。執筆者は旧労働省補償課の担当官だった人物だ。
ところが、2008年の増補新装版では「肺ガンについては、1973年に最初の労災認定事例がある」となり、表は削除された。執筆者名もない。
過去のアスベスト肺ガンの知見を調べていて偶然これを見つけた村山教授は、「今になってわざわざ削るというのは意図的ですよ」と話す。
同書の肺ガンの記述を巡っては国会で議論になったことがある。
2005年10月25日の参議院厚生労働委員会で共産党の小池晃議員がアスベスト肺ガンを初めて労災認定したのはいつか聞くと、厚労省の青木豊労働基準局長は「1973年」と答弁。
すると小池議員は同書を示し、「石綿による肺がんは1960年ごろ初めて労災認定されたと表まで示して書かれている。どちらが正しいのか」と追及した。
青木局長が「石綿による原発性肺がんと合併症による肺がんの違い」と答えると小池議員は矛を収めてしまったのだが、重要なのは1960年以前から「因果関係が明らか」と旧労働省の担当官が認めていたことなのだ。
国際的には1955年のリチャード・ドールの報告でアスベストと肺ガンの関係性は確定したとされており、これに基づいた記述とみられる。
国の検証によれば、厚労省は1972年12月に世界保健機関(WHO)の国際ガン研究機構(IARC)がアスベストの発ガン性を認めるまで確定して いなかったとの立場だ。1960年ごろから労災認定をしていたとすれば、発ガン性を認めていたことになり、このストーリーが崩れる。だからこそ、削りた かったのだろう。
同省補償課は同書の該当部分への関与を否定するが、「執筆したのは補償課」と関係者は厚労省による意図的な削除であることを認めている。
念のため、同書で次章を執筆した環境再生保全機構の担当者に両章とも書いた可能性を確認したが、「うちで書いたのは(所管する)石綿新法だけ」と言う。やはり厚労省による隠ぺい工作以外考えられない。
これら国による2つの歴史の隠ぺいには、アスベスト公害の責任を認めまいとする政府の頑な姿勢が透けてみえる。それはなぜか。責任と直結した補償の 問題を国が意識しなかったことは考えられず、責任を回避することで、被害者への補償を免れようとする意志があったことは間違いないだろう。
前述した1960年ごろに肺ガンで労災認定を受けた人物は、大阪・泉南地域の石綿工場で20~55歳まで働いていた男性だった。
それだけでなく、彼は戦前の旧内務省調査でも石綿肺と診断されていた。
戦前の石綿肺とアスベストの関係だけでなく、戦後の発ガン性を巡る議論においても因果関係を身をもって証明することになったのが日本のアスベスト公害の原点である泉南地域の労働者だったことには因縁めいたものを感じる。
本連載第1回の冒頭で紹介した原田モツさんなど、発ガン性まで判明した後に働き始めており、国の不作為は明らかだ。国は自らの過去を正面から見据え、謝罪してから再出発すべきではないか。
環境大臣交渉の5日後、重度の石綿肺だった泉南訴訟の原告の1人が肺ガンで亡くなった。
その直後の公判で、アスベスト被害による家族の死を涙ながらに原告が語るなか、国側弁護人の何人かは眠りこけていた。原告が次々と病に倒れる現状でさえ、被害者の訴えに耳を傾ける姿勢を国は持ち合わせていない。
~つづく~
※初出「アスベスト公害、行政・企業の"ウソ"を暴く(1)国が隠ぺいする戦前の泉南調査 2つのウソに透ける国の思惑」『日経エコロジー』2009年8月号を一部修正。なお、文中の年月や関係者の肩書きなどは発表当時のままである。