日本各地で原発再稼働の動きが進む中、福島県いわき市が主催する「スタディツアー」に参加し、市の沿岸部から「全町避難」が続く富岡町を訪ねた。今なお放 射能汚染によって12万人が避難生活を強いられている福島。住民の帰還の目処すら立たない、廃墟のままの町の姿に迫った。(新聞うずみ火/矢野 宏)
◆時間が止まったまち‐富岡町
いわき市久野浜地区をあとにした私たちは、広野町を過ぎ、楢葉町に入った。
楢葉町は2012年8月に「警戒区域」が解除され、「避難指示解除準備区域」に再編された。放射線の年間積算線量が20ミリシーベルト以下の地域であり、避難指示は継続されているが、住民は自由に一時帰宅できる。町内の第1次除染も終わった。しかし、住民は戻っていない。
スタディツアーの案内役で「いわき復興支援・観光案内所」の大和田邦洋さんがいう。
「楢葉町の住民の多くは(かつて)隣の富岡町で買い物をしていました。線量が低いからといって、帰ったところで、(富岡町が無人では)生活できません。それぞれのまちの機能があって支え合っているのですから」
JRいわき駅前を出発して40分、バスは富岡町へ入った。海側に入ると、壊された家屋がそのままの姿で残っていた。富岡町は福島第1原発のある大熊町の南隣で、原発から10キロから20キロ圏内にある。
2011年3月11日、地震と津波によって町は大きな被害を受けた。福島第1原発事故で町全体が半径20キロの「警戒区域」に入ったため、1万 6000人の住民たちは後片付けをする間もなく、翌朝には着の身着のままで避難した。今も全域が無人になったままで、町は雑草が生い茂り、家屋は埃に覆わ れている。
一昨年3月、富岡町では「警戒区域」が解除となり、放射線量に応じて「帰還困難区域」(年間被ばく線量50ミロシーベルト以上)、「居住制限区域」(同20~50ミリシーベルト)、「避難指示解除準備区域」(同20ミリシーベルト以下)の3つの区域に再編された。
「ここでの滞在時間は20分です。福島第1原発までは9キロですから、念のため、若い女性はマスクを着用してください」と、大和田さんが注意を促した。
放射線量を測定する「モニタリングポスト」の数値は、毎時0.29マイクロシーベルト。通常の5~6倍ある。
原発事故の影に隠れがちだが、この町は津波で大きな被害を受け、256人が亡くなっている。特に被害が大きかったのがJR富岡駅周辺の地域。高さ21メートルの津波が押し寄せ、駅舎ごと流された。
ツアー一行はバスを降りたあと、駅の脇にある小さな慰霊碑に手を合わせ、犠牲者の冥福を祈った。
「駅の向こうに海が見えますが、震災前、海は見えませんでした。住宅がぎっしりと建っていたのです。駅の周辺地域だけで186人が亡くなりました」
駅前の商店街に人影はない。2階部分までえぐられた旅館、窓ガラスが粉々になった美容室、柱と壁が傾いたままの工場、スクラップ状態になった車が家屋に飛び込むなど、この街の時間は止まったままだ。
この町には福島第2原発がある。津波で第1原発と同じように電源喪失したという。
「電源がたまたま生きていたのです。社員らが予備電源をつなぎ、水素爆発を免れたのです。もし、水素爆発していたら、東京も住めなくなっていたと思います」
(続く)