今年はベトナム戦争が終わって40年。新聞うずみ火の「うずみ火講座」では5月9日、大阪市此花区のクレオ大阪西において、映像ジャーナリストの小山帥人 (おさひと)さんを招き、「アメリカ人脱走兵が我が家にやってきた」と題して、ご自身で撮影した映像を上映しながら当時の様子を語ってもらった。(矢野宏 /新聞うずみ火)

ベトナム戦争当時、在日米軍基地を脱走した米軍兵士を自宅に匿った経験を持つ映像ジャーナリストの小山帥人(おさひと)さん。映像を交えて当時の様子を語ってもらった(撮影・矢野宏)
ベトナム戦争当時、在日米軍基地を脱走した米軍兵士を自宅に匿った経験を持つ映像ジャーナリストの小山帥人(おさひと)さん。映像を交えて当時の様子を語ってもらった(撮影・矢野宏)

◆当時もあった、政府の激しいメディア介入

ベトナム戦争時、在日米軍基地から脱走してきた米兵をかくまった人たちは、表面には出てきませんでした。今年になって探したところ、「僕もかくまっ た」「私もあずかった」という人に出会った。昔のことだから米兵の名前も覚えていない。メモを取るなと言われていたので、記憶から消えかけようとしている のですが、たまたま僕は映像を撮っていた。けしからんと叱られたのですが、いつか役に立つときが来ると思って撮影しました。まさか今年がそうだとは思わな かったです。

まず、簡単にベトナム戦争を振り返っておきましょう。
1965年に北爆が始まり、米軍の爆撃機が在日米軍基地からベトナムへ向かいました。前年の64年に僕は社会人になりました。東京オリンピックがあり、新 幹線が開通。その年の8月に「トンキン湾事件」が起きました。米軍艦が魚雷攻撃を受けたのですが、最初の攻撃については北ベトナムも認めましたが、2回目 は否定した。米国は「北ベトナムからの攻撃があった」と主張し、ベトナム戦争への介入が本格化します。

日本は当時、佐藤栄作内閣で、いち早く米国のベトナム介入を支持します。まだ敗戦から20年、空襲の記憶が残っているのに、また空襲をやる。それも日本の基地からやっている。これはよくないという思いは、みんなにありました。

ベトナム戦争に関する報道では、62年に「日本電波ニュース」の柳澤泰雄さんがハノイでホーチミン主席にインタビューし、65年1月から毎日新聞の 大森実さんが「泥と炎のインドシナ」という連載を始めます。迫力ある現場ルポでした。開高健さんが週刊朝日で「ベトナム戦記」を始め、岡村昭彦さんも「南 ヴェトナム戦争従軍記」を発表しました。

これらの報道に対して、米政府が「毎日新聞には共産主義者がいる」と批判し、大森さんがハノイの病院が爆撃された記事を出すと、当時のライシャワー 駐日大使が「北ベトナムの宣伝映像を真に受け、虚偽と真実の区別もつかない記者がいる」と名指し批判します。後に、ライシャワー氏と会談をした毎日新聞の 編集幹部が「山に入って山を見ず」と報道を批判したため、大森さんは退社します。

65年5月にはNTV「南ベトナム海兵大隊戦記」が放映されましたが、日本政府からの圧力で中止に追い込まれます。67年10月には、TBSの田英 夫キャスターが「ハノイ―田英夫の証言」を報道したところ、閣議で批判されます。TBSの社長が呼び出されて辞任を迫られ、結局、田さんが社を去ることに なります。

政府はメディアに介入するのです。それをどうはねのけるかがメディアの力なのですが、今またメディアに対する危険が近づいています。ベトナム戦争の時には介入されながらもその実態をいろんな形で伝えました。

65年4月、「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)が発足します。市民による運動、新しいスタイルでした。米兵に対して「脱走しろ」というビラをまき、実際に手助けする「反戦脱走米兵援助日本技術委員会」(ジャテック)と呼ばれる組織も発足します。

67年秋、米空母「イントレピッド」の4人の水兵が脱走してきました。横浜からナホトカへ向かい、旧ソ連から中立国のスウェーデンへ向かったことが新聞にも大きく掲載されたのを覚えています。(続く)

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