◆撃沈された輸送船

翌1943年の夏、真田さんは2等航海士となり、海軍御用船の興津〔おきつ〕丸に転属しました。

興津丸は、日本海軍の西太平洋での重要拠点トラック島を基地とし、海軍航空隊基地のあるニューブリテン島のラバウルやブーゲンビル島などへの輸送にあたりました。

赤道を越えること十数回。アメリカ軍の潜水艦と飛行機の襲撃にさらされながら南航し、あるいは北航したのでした。

「私たち船員は、撃沈された船の仲間が死んでゆく知らせを頻繁に聞きながらも、歯を食いしばって、天皇陛下のために死ぬんだと、がんばっていたんです」

興津丸はアメリカ軍の上陸を防ぐための機雷を満載し、ラバウルに運んだ直後には、ロッキードP-38戦闘機に空襲されました。

爆弾が船体に命中しましたが、そこがハッチビーム(厚板鋼材部)だったため、機雷の誘爆は起きず、轟沈はまぬがれました。

生死の境は紙一重でした。

その後、興津丸は船体破損の修理もできぬまま、輸送任務を続けました。

1944年(昭和19年)1月24日、給水船の日豊丸とともに、トラック島から東へ、ブラウン島にクェゼリン飛行場の補強資材と日本からの土木作業員およそ600人を運ぶため出港しました。駆逐艦「涼風」と33号駆潜艇が護衛についていました。

翌25日の夜11時過ぎ、突如、前方を行く「涼風」から大音響とともに火柱が上がりました。アメリカ軍潜水艦の魚雷が命中したのです。火の手が暗黒の海洋を照らし、「涼風」はまもなく沈んでいきました。

「興津丸は魚雷を回避するために、やみくもに動き回りましたが、4時間後、ついに魚雷にやられて、沈没はまぬがれない状態になりました。船長は、部 下たちの『また転戦してお国のために尽くしましょう』、『とにかく一緒に逃げましょう』という言葉に対して、『俺はこの船と一緒だ』と言い残し、自分の体 を船橋のコンパス・スタンドに縛りつけたまま、船とともに沈んでゆきました......」

真田さんら船員と土木作業員は夜の海に投げ出されました。

魚雷を受けてからおよそ30分後、興津丸は船首を直角に振り上げたかと見るや、船尾から真っ直ぐ海中に消えていったといいます。 続きを読む>>

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