ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺(ホロコースト)の悲劇を通して平和の尊さを伝える広島県福山市御幸町の「ホロコースト記念館」が6月、開館20周年を 迎えた。今年は戦後70年の節目の年。聖イエス会牧師の大塚信館長(66)は「ホロコーストも人間が作ったもの。それを克服し、伝えていくのも人間です」 と語った。(矢野宏 新聞うずみ火)

広島のホロコースト(ユダヤ人虐殺)記念館が開館20周年を迎えた。写真は記念館に再現された『アンネの日記』で知られるアンネ・フランクの隠れ部屋。その後アンネはドイツの強制収容所に送られ、1945年チフスのため15歳で死亡した。(撮影・矢野宏)
広島のホロコースト(ユダヤ人虐殺)記念館が開館20周年を迎えた。写真は記念館に再現された『アンネの日記』で知られるアンネ・フランクの隠れ部屋。その後アンネはドイツの強制収容所に送られ、1945年チフスのため15歳で死亡した。(撮影・矢野宏)

◇アンネ・フランクの父との出会い
日本最初のホロコースト記念館として開館するきっかけは44年前、当時京都在住の神学生だった大塚館長がイスラエルを訪問した際、『アンネの日記』のアンネ・フランク(1929―45)の父オットーさんに出会ったことだった。

「ただ同情するだけでなく、平和をつくるために何かをする人になってください」という言葉に感銘を受けた大塚館長は、その後もオットーさんの家を訪 ね、交流を深めながらホロコーストの関連資料や遺品を世界中から集め始めた。福山市の聖イエス会御幸教会の牧師となった大塚館長は、アンネ没後50年でも ある95年7月に教会の敷地内に記念館を開館。2007年9月には新館をオープンした。

ホロコーストとは、ギリシャ語で「焼いてしまう」とか、「生けにえ」を意味する言葉。記念館にはホロコーストで虐殺されたユダヤ人の遺品や写真パネルが展示されている。

ヒトラー率いるナチスは1932年の選挙で「ユダヤ人排斥」などを訴え、第1党になる。首相となったヒトラーは35年にユダヤ人差別の法律を施行。ユダヤ人であるというだけで自転車に乗ることも、公園に入ることも、学校へ行くことさえも禁じられた。

39年、ナチス・ドイツはポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発。破竹の勢いでヨーロッパを占領し、ユダヤ人をアウシュビッツなどの強制収容所 へ送る。収容所では強制労働を課すことで労働を通じた絶滅を行い、人体実験やガス室などでの直接的な殺害も行った。ナチスによるホロコーストで犠牲になっ たユダヤ人は600万人以上。その一人がアンネだった。

記念館の2階には、アンネがオランダ・アムステルダムの隠れ部屋を再現した部屋がある。幅2メートル、奥行き4.6メートルほどの細長い部屋の床には緑色でテーピングされている。

「アンネのベッドと、一緒に生活していた50歳の歯医者さんのベッドが置かれていたところです。窓はいつも閉じられたまま。ほとんど自分で使うスペースもなく、机は一つしかなく、この中でアンネは日記を書いていたのです」と大塚館長は説明する。

アンネが隠れ部屋で暮らし始めたのは42年7月。密告されてナチスのゲシュタポ(秘密警察)に逮捕されるまでの2年1カ月を過ごした。
その後、アンネは三つの強制収容所を移送され、45年3月12日にドイツのベルゲン・ベルゼン強制収容所でチフスのため15歳9カ月で死去する。解放される1カ月前のことだった。

展示されている日記にこんな一節がある。
「戦争の責任は、偉い人たちや政治家、資本家にだけあるのではありません。責任は一般の人たちにもあるのです。そうでなかったら、世界中の人々はとうに立ち上がっていたでしょうから」

大塚館長は「ホロコーストに関わった人はひと握りの人でした。多くが見て見ぬふりをした人たちです」と説明し、こう言い添えた。
「無関心ではいけない、傍観者ではダメです。一人ひとりが自分自身を変えていく努力をしてください。過去を忘れず、未来を展望しましょう」【矢野宏 新聞うずみ火】

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