◆一度も実施されていない「必須の実験」
しかも原告側弁護団によれば、沼野氏のこだわっていた、1960年当時はできなかったという局所排気装置の設置時に現場で粉じんの捕集を実験して実証する ことについて、建設労働者の間で起こったアスベスト被害についての国賠訴訟「首都圏建設アスベスト訴訟」で沼野氏が証人尋問されたさいに、そこに参加して 改めて確認したという。
原告側弁護団の1人が証言する。
「昭和35年(1960年)にできなかったのならいつならできたのかと聞くと、『当時は粉じんの実験はできなかった』っていうんです。それで『昭和 46年(1971年)ではできたんですか?』と尋ねても『できなかった』との答えでした。それじゃいつできたのかと聞いたら結局ずっとできてない。だった らそんな主張意味がない。現場で実験して能力を実証することができなかったのではなく、単に設置の義務づけしなかったから進まなかったということです」
沼野氏が必要と主張する実験は実際には一度たりともおこなわれず、実際には装置が設置されていた。つまり、そんな実験は必要なかったということだ。
アスベストの測定や労働安全管理に詳しい東京労働安全衛生センターの外山尚紀氏も「現在のような効率的かつ無駄のない、最小限のエネルギーで動く装 置を設置するとなると難しいが、局所排気装置は大きな換気扇とか掃除機みたいなものですから、ある程度の性能を持つものであれば技術的には当時からできた はず」との考えを示す。
リスク管理論が専門でアスベスト問題の歴史について、技術的側面も含めて調査した早稲田大学の村山武彦教授は次のように解説する。
「局所排気装置の技術的な側面は1950年代、遅くとも1960年には確立されていた。労働省の石館文雄という人物がいるんですが、この人は泉南地 域の石綿肺の調査を最初にやった人なんです。助川さんの調査(戦前の1937年から実施された当時の保険院保険相談所大阪支所長・助川浩医師を中心とした 泉南地域の石綿工場における詳細な健康調査)が非常に有名なんですが、その前にかなりしっかりした調査をやっていた。そういう意味では泉南の石綿肺被害に ついて日本でも有数に詳しい人物です。
その人が戦後、労働省の労働衛生課の課長になって、その後工学の専門家になっていくのですが、1950年にアメリカに渡っていろいろ調べている。そ のときにいろんな専門家に会って、帰国してから『産業衛生工学』という本の監修をしている。1953年に発行したこの本はアメリカで出版された本の翻訳書 で技術的な側面を中心に書かれています。
その中にアスベストの局所排気装置についての詳しい記述があって、写真も出ています。少なくとも大手(企業)が(局所排気装置を)使っていたら技術 的には確立されていたといえるのではないか。大手がやってたとすれば、中小企業も含めてもっときめ細かい指導ができたはず。とくに石館氏は泉南の状況に相 当詳しかったはずで、彼が国の(労働安全行政の)中枢にいたはずなのだから、もっと具体的な取り組みができたはずです」
つまり1958年に示された国の資料で局所排気装置の製造・設置は一部の技術者には十分理解可能だったとみられる。しかも一部ではすでに実用化されていた事実からも、村山教授の指摘の通り、十分にほかの工場などにも適用できたのではないか。
企業側にしても、それなりの技術者がいて図面があれば製造できるようであれば、それが規制として設置の義務づけがされれば、製品としての販売だけで なく、技術を提供することでも利益になる。規制がそうした技術の普及の後押しになるのは、1970年代のアメリカにおける自動車の排気ガス規制などに関す るいわゆるマスキー法制定による技術の進歩という有名な事例があるのだから無理な話ではあるまい。つづく【井部正之】
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※拙稿「「悪魔の判決」と批判される泉南アスベスト訴訟高裁判決の本当の意味【下】」『ECOJAPAN』日経BP社、2011年12月19日掲載を一部修正