◆6.15デモ
アフマディネジャード大統領の勝利集会が行われた日の夜、二つの重要な出来事がテヘランで起こっていた。一つは、改革派候補のミールホサイン・ムー サヴィーが最高指導者ハーメネイー師に対し、選挙結果について直接意義申し立てを行ったこと。そしてもう一つは、テヘラン大学学生寮の襲撃だった。
ハーメネイー師とムーサヴィー候補の会談は、一夜明けてから大きく報じられた。ムーサヴィーはこの会談で、今回の選挙におけるいくつかの不正の事例 をハーメネイー師に説明し、ハーメネイー師はこれを受けて、選挙結果を承認する法的権限を持つ護憲評議会でそれらの問題を精査すると約束したという。
襲撃を受けたテヘラン大学学生寮は、改革派学生の拠点であり、1999年の騒擾事件でも中心的役割を果たし、その当時も暴力集団による襲撃を受けて いる。今回も、改革派、特にムーサヴィー候補の支持学生の多くがこの寮に住んでいたはずだ。昨夜未明、学生たちが寝静まった時間、突如、私服の集団が寮を 襲撃したという。死者数名、さらに200名近い学生が連れ去られた。このため、今日予定されていた期末試験が多くの学部で延期されたほどだ。
これら二つの出来事が、今日の抗議デモにどれだけの影響を与えることになるのか定かではない。しかし、一つは大きな希望として、もう一つは大きな怒りとして、参加者の胸に秘められていたことは確かだ。
この日の午後、テヘラン中心部を東西に走るアーザーディー通りで、改革派支持者らによるかなり大規模なデモ行進が行なわれることになっていた。私は仕事を終えると、その足でアーザーディー通りへ向かった。
渋滞で、デモ行進が行なわれているアーザーディー通りまで車で行くことはできず、3キロほど歩くことを余儀なくされた。ようやくアーザーディー通り にたどり着いたのは、19時を回ろうという頃だった。そこには、ピースサインを掲げながら、黙々と数キロ先のアーザーディー広場を目指す群衆の姿があっ た。この行進自体は4時間ほど前に始まったそうだが、まだ人の流れは途切れていない。
当局はこのデモ行進の許可申請を却下し、治安部隊に実弾使用を認めているとメディアでは報じられていた。にもかかわらず、誰もが笑顔で行進を楽しんでいるのが印象的だった。
アーザーディー広場へ向かう人の流れ、広場から折り返してくる人の流れ、さらに沿道には、手を振り行進を見守る人たちがいる。歩道橋の上に上がって 見渡せば、西方面は、まだ遠いアーザーディー広場まで、東は都会のスモッグでかすんで見えなくなるまで、テヘラン一の幹線道路は人で埋め尽くされていた。 初めて目にする数十万という人の数に、私は息を飲んだ。
緑の鉢巻をつけた若者が声をかけてくる。記者かと私に尋ね、大群衆を指差して、「これこそがイラン国民の姿なんだ!伝えてくれよ」と興奮気味に話す。
これだけの大群衆にもかかわらず、行進は冷静さと理性によって平穏に保たれていた。歓声や話し声はあっても、スローガンは一切叫ばれず、代わりに、「私の票はどこへ?」などのスローガンの書かれた画用紙を掲げて歩いている。
途中、ある箇所に通りかかると、若者らが「右手に向かってピースサインを」と呼びかけていた。右手にはバスィージ(革命防衛隊傘下の市民動員軍)の 施設があった。そして別の若者は群衆に向かって、自分の唇に人差し指を当てて、決してスローガンや野次を叫ばないよう、促している。騒ぐことで、彼らを刺 激したり、デモへの攻撃や鎮圧の口実を与えてしまうことを恐れての措置だ。それでも時おり、スローガンを叫んでしまう若者がいる。そんなときは周りの人た ちが、「スローガンを叫ぶな!」といさめるのだった。
大きな交差点ではパトカーと交通警察が数人待機してはいたが、武装した治安部隊の姿は、まだ見えなかった。
◆沈黙のデモから騒乱へ
アーザーディー広場にたどり着いたのは、夜8時過ぎ。日が落ちて間もない頃だった。
広場の北側、そこから100メートルほど離れた先で、突如、タイヤを燃やしたような真っ黒な煙が立ち昇った。それからすぐ、その方角からパンパン、と乾い た銃声が響いた。バスィージの別の施設に火が放たれたらしい、とすれ違う人たちが口々に言っている。しかし、群衆は落ち着いている。それどころか、「ど れ、ちょっと見に行ってみるか」とそっちに向かって歩いてゆく人たちもいる。
銃声は断続的に聞こえていた。その場で立ち話をしていると、突然、黒煙の方角から、多くの人が全力疾走で逃げ帰ってきた。それを見た周囲の人たちも 顔色を変えて走り出した。私も走った。くもの子を散らすように逃げ始めた群衆を制止しようと、「落ち着け!止まれ!」と呼びかける人もいる。なんて勇敢な 人なのだろうと心底感心しながら、私はその人の横を全力ですり抜けた。
実弾による銃撃が行なわれたのだろう。そろそろ終わりにしろという当局側のメッセージか、あるいは、一部の若者が破壊行為を始めたのか。100メー トルほど走って、私は肩で息をしながら初めて周囲を見渡した。スローガンを叫び始める集団があった。あたりはすっかり暗くなり、どの小道から治安部隊が現 れ、包囲されるか知れない。21時前、私は広場を離れた。
しばらく暗い小道を歩いたところで、黒光りするプロテクターに身を固めた治安部隊の一群とすれ違った。彼らがこれから行う「鎮圧」を目撃するため、 広場へ引き返そうなどという気持ちは、私にはもちろんなかった。自分の身の安全を確保できるとは到底思えなかった。さらに歩くと、広場に向かう何台もの救 急車とすれ違った。広場の方角から来た人たちは、何人が殺されたと口々に言い、「自分の目で見たのか?」と詰め寄る人もいた。
広場から少し離れた場所で、大きな病院の前を通りかかった。救急搬送口には殺気立った人だかりが出来ていた。そこには10台近い担架が待機し、次々に救急車が、アーザーディー広場からの負傷者を運び込んでいた。
狂ったように泣き叫んでいる母親の姿があった。「殺しやがった!あいつら、殺しやがった!」と泣き崩れている男性がいた。
ここは一体どこなのだろう、ガザか?バグダッドか?ほんの3日前まで、テヘランは世界で最高の自由を謳歌する町だった。それが選挙が終わるや否や、 100名以上の改革派政治家が逮捕され、抗議運動の鎮圧に実弾が使用され、学生寮がならず者たちに襲撃され、若者たちが殺されている。
宗教と民主主義の両立を目指すこの国の理想はどこへ行ったのか。
4年前の大統領選挙の際、最高指導者のハーメネイー師はこう言った。
「保守派と改革派は、イスラム共和制という飛行機を飛翔させるための両翼である」。
私はそれを聞いて、この国の政治体制に夢を感じた。
しかし、今の状況は、右の翼が左の翼をはたき落とそうとしているようにしか見えない。