70年前の7月、大阪に落とされた1発の爆弾。それは、後に広島と長崎を襲う原爆投下のための訓練だった。研究者が「模擬原爆」と呼び始めたアメリカ軍の兵器について伝えるシリーズの二回目。(鈴木祐太/アイ・アジア) <<第1回へ
この爆弾について大阪市と大阪府が共同事業として行っている資料館の「ピース大阪」に記録が残されていた。米軍が戦後、開示した記録を入手したものだっ た。それによると、この日に大阪に落とされた爆弾は1発。重さは、1000ポンド(4.5t)。通常爆弾としては極めて大型だ。
記録を残したのは、米陸軍航空軍の第509混成群団となっていた。この部隊は、広島、長崎に原爆を落としたことで知られる。更に読み進めると、この爆弾が、原爆投下のための米軍の訓練だったことが書かれている。
「模擬原爆」。一部の研究者の間で使われ始めている名称だ。原爆と同じ大きさ、形状、重さを有し、通常火薬が大量に詰められていた。その目的は、爆 撃機が原爆を投下する際に注意すべき点などについて訓練を重ねるための、原爆を模した爆弾だったのだ。ご丁寧に「パンプキン」という名称までつけられてい たという。形と色がかぼちゃに似ていたからだという。
龍野さんがこの爆弾の真相を知ったのは、1990年代になってからのことだった。米軍が長くこの模擬原爆の事実を隠してきたからだ。原爆だけでもその非人道性が非難されている中で、原爆を落とすためだけに一般の人を狙った爆弾投下を行っていた事実は隠したかったのだろう。
死亡したトシちゃんは龍野さんの姉の親友で、龍野さんとも親しくしていた。爆撃機が飛来した時、空襲警報が鳴ったため、トシちゃんの夫が隣組の組長をしていたため夫の準備を手伝うために自宅に戻っていって被害にあったのだという。