「北朝鮮に記者はいるがジャーナリストはいない」。
「朝鮮中央通信」や「労働新聞」など、国営メディアはあっても、真実を伝える報道機関が存在しないことを端的に表現した言葉だ。その国営メディアの実態は厚いベールに覆われていてよくわからない。まして、そこで働く「御用記者」が何を考え、どのように取材をし、記事を書いているのかはさっぱり伝わってこない。
今回、寄稿文を通じ、北朝鮮の記者生活を明かしてくれたのは、現在は中国で暮らす、ユン・ビョンヒ(尹秉輝)氏(仮名)。北朝鮮北部・両江道恵山(ヘサン)市の放送委員会で8年にわたって報道部記者を務め、2005年に脱北した人物である。なお、文中に登場する彼の上司・同僚たちの名もすべて仮名である。(寄稿 ユン・ビョンヒ 整理/訳 リ・ジンス)
卒業は青天の霹靂だった。楽しみにしていた教育実習課程も無くなってしまった。毎年9月1日に入学式と卒業式を一緒に行うのが朝鮮の慣例だったが、私が大学を卒業した1996年からは、4月1日に変更になったのだ。
私たちは、6ヶ月間の教育実習過程を経ることなく、3年6ヶ月で金正淑(キム・ジョンスク)師範大学の朝鮮語文学部を卒業することになった。私はとても運がよかった。
卒業生は通常、高等中学校(注1)の国語文学教員として配置されるのだが、卒業時に「両江日報」、そして「両江道放送委員会」(注2)からの新任記者採用担当が大学に来ていたからだ。それぞれ2人ずつ記者を雇用するとのことだった。当時の競争率はとんでもない高さだった。
朝鮮語文学部だけでなく、革命歴史学部や指導員学部(注3)まであわせると、2つの報道機関に入るための競争倍率は100対1を遥かに超えていただろう。私は当時、大学の「文学小組(サークル)」の責任者という肩書きだった。
とはいえ、熾烈な競争を勝ち抜く可能性はほとんどなかった。私は幹部候補として登用される条件のうち、もっとも有利とされる「除隊軍人」や「労働党員」のいずれでも無かったからである。
しかし運は私を見捨てなかった。当時すでに、除隊軍人や党員から優先的に集められた記者たちの実力不足が露呈していた。
そのため、即戦力として文章を書ける人材が欲しかった採用担当の焦りが、私を選ばせることとなったのだ。文学創作担当のキム・ヨンヒ教授と、他の朝鮮語文学部の教授たちが揺るぎない態度で私を推薦してくれたことも採用を大きく後押しした。
1996年3月26日、私は両江道放送委員会の報道部記者として採用、配置された。当時、この就職にとても強い自負を覚えた記憶がある。高等中学校の同期の間で最も早く社会的出世を果たし、大学の同期の中でも最高の職場を手に入れることになったからだ。
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