北部の両江道恵山(ヘサン)市の放送委員会で8年にわたって報道部記者を務めたユン・ビョンヒ氏による寄稿の四回目は、記者生活で経験した珍しいエピソードを紹介する。(寄稿 ユン・ビョンヒ 整理/訳 リ・ジンス)
行けと言われれば雪中行軍も
記者は朝鮮社会全般を知る機会があるという意味でも、特別な存在である。いくら保安員や党機関の幹部であっても、朝鮮では横のつながりが制限され、縦のつながりだけの場合がほとんどであるため、自分の関係する分野以外の出来事や社会構造を知るのは難しい。
しかし記者は取材を通し、社会の細部まで比較的詳細に見ることができる。このため、たくさんの珍しい話を知ることになる。ふたつほど紹介したい。
有名な非転向長期囚の李仁模(リ・インモ)(注8)が故郷の両江道豊山(プンサン)郡に戻ってきた1998年の1月頃の話だ。彼は平壌から豊山郡のファンスウォン飛行場まで飛行機で来て、そこからさらにヘリコプターに乗り換え、故郷にたどり着いた。
1泊2日の強行日程での訪問だったが、我々としても取材をしなければならない。このため、政治教養部は非常事態となった。零下26度にまで冷え込む真冬の両江道で、取材車も無い状況のなか、豊山郡まで行く手段が無かったからだ。
だがついに、政治教養部長のハン・ヨンチョルと金正淑師範大学を卒業した新人記者のユ・ヨンチョルは徒歩で出発することになった。恵山市から豊山郡までは、360里(約150キロ)もある。ふたりは朝6時から歩き始め、次の日の朝四時に到着した。
除隊軍人でもあったユ・ヨンチョル記者は道中凍傷にかかり、その後長いあいだ苦労することになった。口の悪い彼は「あの李仁模爺さんは、なんでこんな真冬に他人に迷惑をかけるんだ? 夏にはいったい何をしていたんだ?」と毒づくのであった。その姿を思い起こすだけでも笑いがこみ上げてくる。
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