韓国のメデイア代表団がやって来た
2000年の8月には、韓国のメディア代表団が平壌(ピョンヤン)を訪問した。当時、朝鮮の資料によれば、代表団の団長は文化観光部長官であった朴智元(パク・チウォン)だった。しかし飛行機が着陸し、代表団が降りてきても、朴はなかなか姿を見せなかった。
聞くと、飛行機で来る途中、機内で(韓国代表団同士の)言い争いがあったというのだ。韓国当局が政府組織から独立しているはずのメディア代表団の団長を決めるのはおかしい、朴が団長というのは問題がある、不適格だ、という話になり、数人が集まって新たな団長を選出したというではないか。
このため、朴は飛行機を降りようとせず、40分のあいだ朝鮮当局をてこずらせた。しょうがないので、本来朝鮮側で使用する予定であったベンツを動員し、朴と飛行機の中で選ばれた新団長を乗せたという。
この話は朝鮮の記者たちにとっては新鮮だった。当局が決めた団長を団員たちが勝手に変えてしまうことに、朝鮮の記者がどれだけ驚いたことか。(続く)
8 李仁模(1917~2007)は朝鮮戦争当時の1952年捕虜になり、以降、韓国で34年間服役した(当時、従軍記者だったという説もあるが、定かでない)。1993年、北朝鮮出身の元政治犯として初めて北朝鮮に帰国。その後、共和国英雄の称号を受け、厚遇された。一説では黄海南道の甑山(ジュンサン)教化所を訪問した際、その収監環境の劣悪ぶりに「韓国の監獄がこうだったら、私は1年ももたなかっただろう」という趣旨の発言をしたかどで、晩年は冷遇されたとされる。現在は平壌市兄弟山(ヒョンジェサン)区域にある愛国烈士稜に埋葬されている。
9 北朝鮮の記者は入社当初は「無級」である。4年間の記者生活を経ると、5級記者になる試験資格が与えられる。試験には「理論試験」と「実務試験」あり、前者は『放送記者論』や『文芸理論』などの熟知度を、後者では決められた時間内にいかに上手に記事を書けるかが試される。級数が上がるにつれ、毎月の記事ノルマが増える。5級は五五点、4級は65点を稼がなくてはならない。一般記事は0.2点、行事報道は0.5点、金日成・金正日の行事関連記事は1点、紹介記事は四点、金日成・金正日の偉大性教養記事は10点としてカウントされる。級数が上がる長所のひとつに、有事の際、徴集され前線に配置されない権利を得られる点がある。従軍記者や地方での報道での役割が優先されるからだ。このため、新米記者はみな、4級を目標に記者生活に励むことになる。(続く)
※当記事は、『北朝鮮内部からの通信「リムジンガン」第7号』に掲載されています。