記者の収入はいくらで、家計をどう維持するのか? 気になると思う。朝鮮で記者というのは特別な幹部ではないが、一般的な事務職でもない。知識人の中でも、程度の高い者として評価される。
そして職業の特性上、あらゆる面で一般行政の幹部たちよりも厚待遇を受ける。朝鮮にいた時、私は四級の記者だったのだが(注9)、2002年末頃の月給はわずか2475ウォン。ちなみに当時、コメが市場で1キロ1500ウォンだった。
さらに道路整備や、金曜労働(注10)などという社会的な「支援」の名目で天引きされ、手取りとなると900ウォンに過ぎなかった。それでも給料日にはお金を持ち寄り知人たちと協同食堂に行くのが楽しみだった。もっとも600ウォンのソバ1杯と300ウォンの酒1本を買うとおしまいだったが。家庭ではそもそも私の月給などあてにしていない。どうせ役に立たないのだから。
ではどうやって家計を維持するのか。どの家庭でも生存方法というのがある。いくら統制が厳しい朝鮮といっても、記者の行動を統制するのはそう簡単ではない。朝8時に出勤し、部署べつに掃除をすると8時20分になる。
それからは総合編集室に集まり、その週の日程ややるべき事業についての簡単な会議を行う。余談だが、寒い冬ともなると大変だ。男はみなタバコをふかすので、会議室にはもうもうと煙が立ち込める。そんな場所で、女性も一緒に会議を行わなければならない。
会議が終わると取材を口実にあちこちに散らばっていく。しかし、取材は建前で、実際には家に帰る者が多かった。ある記者は市場で魚を売る妻のために子守をしていた。私はというと、家に帰って変圧器やビデオデッキの修理などをしたのだった。
いわゆる副業というものだが、職場の収入があてにならないため、皆が何かしらの副業を持っていた。私の場合も、ひと月に変圧器2台を直せば、原価を差し引いても1万5000ウォンほどの収入になった。
さらに取材先ではタダで飲み食いできることも多く、協同農場に行けば、キュウリやカボチャなどを貰え、ずいぶん家計の足しになった。記者たちはそれぞれ「お抱え」の協同農場と農産作業班を持っていた。取材にかこつけて、下心を持って接近するのである。
そうして、秋の収穫時には野菜や食糧を分けてもらうのだ。こうして各自、1日中副業に精を出す。そして夕方になると再び集まって、今日は「どんな記事の作成課題に、どれほどの進捗があったか」について報告するのである。
ここでひとつ言及しておきたいのが、記者たちによる「記事の使い回し」である。農場の場合、春に種まき、夏には草取り、秋には収穫というのは毎年繰り返される作業であるが、取材しない訳にはいかない。
しかし前述のように1日中副業を行い、夜になって小さなライトを頼りに書く記事の出来が良いはずがない。だから記事についてあれこれ頭を悩まさずに、似た内容の数年前の労働新聞や放送記事の原稿を「拝借」するのである。
これは私のいた両江道の放送委員会だけでなく、今日の朝鮮の記者全般に見られる現象といえる。このように、朝鮮で記者という職業は、家に商売する元手さえあるならば、よい職業であるといえる。移動の自由がある程度保障され、取材を言い訳にどこに行っても寝る場所と食事には困らないからだ。
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