コンクリートで補強されていない箇所は、土が崩れ落ち山盛りになっていた(12月・樋口元義さん撮影)
コンクリートで補強されていない箇所は、土が崩れ落ち山盛りになっていた(12月・樋口元義さん撮影)

 

「保存の会」の橋本事務局長が説明する。同会は90年、「タチソ」を保存したいと望む市民が結成、トンネルの案内などの活動を続けている。

のどかな田園風景が広がるが、この一帯は、工事に従事する朝鮮人労働者の飯場が並んだという。 山すそに立つ「タチソ地下壕跡」と記された碑には 「このトンネル工事には、周辺の地元民、大阪高医、北の中学、関西工業学校などの動員学生のほか、もっとも危険で過酷なトンネル開削の分野については、強 制連行その他の手段で集められた3500人ともそれをはるかに超えるともいわれる朝鮮人労働者が投入され、多くの死傷者が出たともいわれています」とあ る。

戦争が終わると、軍も現場監督も逃げ出し、朝鮮人労働者だけが残されたという。解放を迎えたというものの故郷に帰るあてがないなど、さまざまな事情 で、結果的に約40世帯が残った。しかしもともとその土地は地元住民が軍に強制収用されたもの。土地明け渡しの訴訟などを経て、「土地の売買」で双方が決 着したのは83年だった。(つづく)
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