「人々は先を争って川に入って行った。丸太やいけだにしがみつき悲痛な声を上げていた。私も押し出されるように川へ入った。背中の妹が『冷たいよう』と言うので、『しんぼうしいや』と交わした言葉が最後となった……」
道頓堀川をバックに記念写真を撮る観光客たちのそばで、焼け野原になった当時の写真パネルが掲げられた。
「この川の上を火が走り、大勢の人が亡くなったそうです」
若者たちでにぎわう心斎橋のアメリカ村では、ビッグステップが建っているところに国民学校があり、その屋上から撮影した写真パネルが紹介された。
戦時中の防空法制に詳しい大前治弁護士(45)は次のように語った。
「空襲の最中であっても逃げることが禁じられていました。それが『防空法』です。東京大空襲で10万人が犠牲になった3日後の大阪大空襲で、当時の政府が『焼夷弾の火は消せるのものではない』『空襲が来たら逃げろ』と言っていたら犠牲者はもっと少なかったと思います」