闇市場を彷徨う「コチェビ」と呼ばれる浮浪児の女の子。「苦難の行軍」期の1998年10月江原道元山(ウォンサン)市にて撮影アン・チョル(アジアプレス)
闇市場を彷徨う「コチェビ」と呼ばれる浮浪児の女の子。「苦難の行軍」期の1998年10月江原道元山(ウォンサン)市にて撮影アン・チョル(アジアプレス)

 

1-2苦難の行軍
1994年7月、神格化、絶対化が極まり、社会システムの重要な一部と化していた金日成が急死すると、内部に溜まりに溜まっていた政治的経済的な矛盾が一挙に噴出した。この「金日成ショック」によって北朝鮮社会はパニック状態に陥った。行政機能は麻痺し秩序は乱れた。国民が食糧とアクセスする唯一の合法的手段であった食糧配給制はほぼ崩壊、ついに朝鮮史上最大最悪の大飢饉が発生するに至った。

この体制の危機に際して、金正日指導部は、1996年から「苦難の行軍精神で暮らし、戦っていこう」というスローガンを掲げた。この大パニック期のことを「苦難の行軍」と北朝鮮の人々は呼ぶ。「苦難の行軍」とは、抗日ゲリラの金日成部隊が、1938年末から約百日にわたって日本軍に追われて山中を彷徨した逸話に由来する。(本稿では、「苦難の行軍」の期間を、餓死者が大量発生し始める1995年から、一応の終息を見せた2000年ごろまでと区分した)

「苦難の行軍」期の死亡者数には諸説がある。死者は最少で20~30万人、最大では300万人以上という推定がなされているが、北朝鮮当局が統計を全く明らかにしないため正確な死者数は不明だ。※1

北朝鮮政府は、餓死者発生の事実は認めつつも、その原因を大雨による洪水や旱魃によって、農業生産が低下したためだと主張し、1995年に国際社会に人道支援を要請した。だが事実は、社会パニックによって、農業生産や流通も含めた計画経済体制の機能麻痺が一挙に拡大し、食糧にアクセスできない人が、ひと時に大量に生み出されたためであった。餓死者の大半は都市住民であった。唯一の合法的食糧アクセス手段の食糧配給がストップしたためであった。

配給をただ待っていた人々がバタバタと死にゆくのを目の当たりにした都市住民たちは、非合法の商売に乗り出す。初期には農村に出向いて家財などを食糧と交換して都市に運ぶ、勤める工場の機械をスクラップにしてくず鉄として売る、パンや餅などの加工食品を作って売るなどの行為に出たのである。非合法の闇商売は、配給が途絶した国民の多くが参加することで一気に拡大していく。(続く)

※1: 1997年2月に韓国に亡命した高官の黄長燁(ファン・ジャンヨプ)元労働党書記は、農業統計と食糧問題を担当する幹部から聞いた話として「1995年、5万人の党幹部を含め約50万人が餓死した。1996年には約100万人が餓死したと推定される」「もしまったく国際援助が供与されなければ1997年には200万人が餓死するだろう」と著書『北朝鮮の真実と虚偽』(光文社1998年)で書いている。在日朝鮮人研究者の文浩一(ムン・ホイル)は『朝鮮民主主義人民共和国の人口変動―人口学から読み解く朝鮮社会主義』(明石書店2011年)の中で、人口統計から1995~2000年の飢饉被害を33万6000人と推計している。大学教員や国家プロジェクトのエンジニアを歴任した知識人の脱北者・韓正植(ハン・ジョンシク)は、石丸との2004年のインタビューで「95~98年に少なくとも人口の10%以上が死亡したと労働党は把握していると党幹部から聞いた。自分の実感としても都市住民の人口の一割以上がこの期間に死亡したと思う」と証言した。

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