◆時代はますます悪い方向へ向かうのでは…
「事前の新聞報道などを見て、ある程度、予想はしていたとはいえ、今回の参院選の結果には大きなショックを受けました。日本人の国民性でしょうかねえ、あまりにも関心がなさ過ぎる。お上は絶対的な存在で、逆らってはいけないと今でも思っているのではないでしょうか」
瀧本邦慶(94)さんは一気にまくしたて、嘆息を一つこぼした。
「太平洋戦争以上の思いを繰り返さないとわからんのやろうか……」
瀧本さんは1921年、香川県生まれ。将来の進路を職業軍人と決め、17歳だった1939年に海軍を志願。2年後の41年12月、一等航空整備兵として空母「飛龍」に乗り組み、真珠湾攻撃に参加した。
その半年後、瀧本さんが乗った飛龍はミッドウェー海戦で米軍機の猛攻を受け沈没。乗員1500人のうち、戦死者は1000人余り。瀧本さんも米戦闘機の機銃掃射で弾丸の破片を肩甲骨に受けていた。
佐世保に帰還した負傷兵は一つの病棟に収容され、外出も面会も一切禁止された。当時の大本営はミッドウェー海戦での戦果を大々的に伝え、
損害については、
“我が方の損害は航空母艦1隻喪失、同一隻大破、巡洋艦一隻大破、未帰還飛行機三十五機”(42年6月11日付朝日新聞)と過小報告していた。
実際は、瀧本さんが乗艦した飛龍を含め、4隻が撃沈、300機以上の飛行機が空母に着艦できずに海へ沈んだ。
ミッドウェー海戦の大敗は、当時の「特定秘密」。生き残った兵士たちは新たな部隊に配属されて最前線へ送られていく。瀧本さんは44年2月、トラック島(現ミクロネシア)の竹島基地へ配属された。南方作戦の重要な補給基地だったため、連日にわたって米軍の大空襲を受け、補給路が断たれてしまう。食べる物も武器もない。仲間や部下が栄養失調や疫病で次々と亡くなっていく。
「食べ物がないためにやせ死ぬほど、苦しい死はありません。お国ために死ねと教えられ、心からそれを信じてその通り行動してきた。その結果、南洋の小島で人知れず餓死してヤシの肥やしになって消えていくのかと思ったとき、国に騙されていたと気づいたのです」
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