◆はじめに
朴淵(パク・ヨン)氏は1960年代に両親に連れられ日本から北朝鮮に帰国し、平壌と地方都市で大学教員などを務めた人物である。200X年に北朝鮮を脱出して日本に入国した。朴氏は、私がこれまで会った数多くの脱北者の中で指折りの知識人で、彼の驚くほどの知識量と体験に裏打ちされた北朝鮮社会分析に、私は目から鱗が落ちる思いをすること度々で、薫陶を受けた。
この記事は、2006年に16回に渡ってアジアプレスのウェブサイトに掲載した朴氏の連載を再録したものである。原稿は、私が整理のために若干手を加えたが、基本的には朴氏が日本語で書いた。「朝鮮語的言い回し」があるのはそのためだ。私が朴氏に依頼したテーマは、朝鮮史上最悪の大飢饉となった1990年代半ばからの、いわゆる「苦難の行軍」がどのように発生したのかを、その渦中で体験したことを踏まえて説明してほしいというものだった。
日本の研究者、ジャーナリストの中には、1990年代飢饉の大量の餓死者発生を「自然災害のせいだ」としか書けない人が少なくない。はっきり言えば、これ誤りである。「度々大雨が降って田畑が流されて収穫が減り人命被害が発生した」という北朝鮮政権の説明は、餓死者発生が政権の無策によって引き起こされた人災だと絶対に認めることができないがゆえの詭弁である。それは北朝鮮体制の「首領無謬の原則」に因るものだ。
1990年代初頭から、既に北部の咸鏡北道や両江道では食糧配給の途絶が始まって餓死者が発生していた。それが金日成の死を機に全国に拡大していった。北朝鮮政権が、洪水被害を訴え国際社会に本格的に人道支援を求めたのは1995年になってからだ。大量餓死者発生の原因を説明しようとするなら、1995年の洪水以前の北朝鮮社会の劇的な変容について知っておかなければならないだろう。
「苦難の行軍」当時、朴氏は30代後半の働き盛りだった。彼の職場でも食糧配給が止まった。人々は生き延びるために法を犯し、秩序を無視した。社会はパニック状態であった。朴氏は、その中で経験したこと、見たことを赤裸々に記し分析した。残念ながら連載は未完のまま中断してしまったのだが、読者は、隣国の未曽有の社会混乱が、いったいどのようなものだったのか、その一端を知ることができると思う。(整理者 石丸次郎)
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