◆アメリカ大使館占拠記念日
今朝は、この秋一番の冷え込みだった。
昨日は、テヘランにしては珍しく、朝からの雨が降り続き、深夜には暴風雨になった。このまま雨が続けば、明日のデモも中止かなと、淡い期待が胸をよぎったが、一夜明けると、まぶしい朝日がカーテンの隙間からこぼれていた。
さて、どこへ行こう……、と布団の中で考える。
今日、11月4日、イラン暦アーバーン月13日はアメリカ大使館占拠記念日である。1979年、イラン・イスラム革命が勝利したその年、急進派学生たちが、テヘランのアメリカ大使館を「スパイの巣窟」として急襲、占拠し、その日から444日間に渡って大使館員を人質に立て籠もった。それ以来、この日は反米、反覇権主義の記念日として、イラン各地で盛大なセレモニーが執り行われるとともに、保守派の学生たちが旧アメリカ大使館前に集い、「アメリカに死を!」、「イスラエルに死を!」とお決まりのスローガンを叫ぶのが恒例となった。
だが今年は、そうした官製デモに加えて、9月に行なわれた「世界ゴッツの日(※1)」と同様、改革派が官製デモに乗じて反政府デモを呼びかけているのだ。
ところが、改革派は場所を発表していなかった。恐らく、これまで集合場所や行進ルートを事前に発表したことで、治安部隊や体制派市民に先を越されてきた経緯から、今回はあえて未発表にしたものと思われる。体制派はもちろん旧アメリカ大使館前に集合することになっているが、改革派のデモは、恐らく市内のいくつかの中心的広場で分散して行なわれることになるだろう。旧アメリカ大使館にも近く、これまでのほとんどのデモの舞台となってきたハフテティール広場ならハズレはないだろうと目星をつけた。
布団から這い出てテレビをつけると、旧アメリカ大使館前でのセレモニーは朝10時から始まるという。9時過ぎ、家を出た。市街北部に連なるアルボルズ山脈が、昨夜の嵐のせいで真っ白に冠雪していた。
朝の市バスは込んでいる。テヘランでもインフルエンザがはやり始めていたが、満員のバスの中でマスクをつけている人は一人もいない。私はひとり、マスクをつけようとしたが、あろうことか耳に回すゴムが片方切れていた。下駄の鼻緒が切れたような嫌な気分だった。
とはいっても、今日のデモはそれほど恐れるに価しないのだ、と私は自分に言い聞かせてみる。記念日といっても平日だ。仕事のある一般の人が参加できる時間帯じゃない。改革派の動員は世界ゴッツの日ほど多くないだろうし、大規模な衝突も起こるまい、と考えた。
20分ほどでバスはヴァリアスル広場に近づいた。繁華なこの広場には、平日の午前中にふさわしい人出が見られたが、店という店は騒乱に巻き込まれることを恐れて軒並みシャッターを降ろしている。そして、街路の至るところに5人、10人のグループで警備にあたる治安部隊の姿があった。
目指すハフテティール広場まであと1キロほどのところで道路は車両通行止めになり、そこから先は歩行者天国になっていた。バスや車を降りた人々の群れが、片側3車線はある広い道路を埋めながら、ハフテティール広場に向かって静かに流れてゆく。プラカードを掲げたり、スローガンを叫んだり、改革派のシンボルカラーである緑を誇示したりする者もいない。誰が改革派で、誰が体制派かも分からない。
そのときだった。私の十数メートル先を歩いていた若い男女5、6人のグループが、まるで痺れを切らしたかのように、改革派のシンボルであるピースサインを高々と掲げ、「ヤー、ホセイン!ミールホセイン!」(※2)と叫んだのだ。次の瞬間、周囲の数十人が声を合わせ、その次の掛け声ではさらに多くの人々が、そして声は瞬く間に水の波紋のように広がり、あっという間に1千人近い人たちが一斉に声を上げていた。
大地を揺るがすような叫びの中で、私は胸をわしづかみにされたかのように、ひとり呆然と立ち尽くしていた。
こんなに多くの人が、という驚きと同時に、この国の失業率が20%近いことを思い出した。職を持っていたとしても、イランでは多くは個人経営で、決まった時間に出社しなければならないサラリーマンは少ない。デモは休日でなければ盛り上がらないということは決してないのだ。
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