第三。もちろん大衆に新しい政権に対する期待が全くなかったわけではなかった。上述したように、国民が知っている首領を後継しようとするなら、その後継者は何時も人民の中でその存在を示さなければならない。しかし地位は世襲可能だが、権威は世襲不可能であった。

首領であっても、自らの人民的カリスマを遺産として残すことはできなかったのだ。金正日は、北朝鮮特有の選挙制度によって選ばれはしたが、金日成とは正反対に、高い垣根の中にいて、人民の知らない高位幹部たちだけが知る存在、人民からは「見えない」、「聞こえない」幻のような存在である。

それでも人民はこのときの選挙(1998年)に際し、それまでずっと宣伝してきた「世界最強」の国防にではなく、破綻した人民経済に責任を持ってくれることを、首領の後継者に強く期待した。実際、このような人民の間の政治的なムードこそが、金正日にとって人民的カリスマを獲得できるゴールデン・チャンスであった。

まさに40年前、金日成は朝鮮戦争休戦後の経済破壊状態を、内閣首相として復旧して、他ならぬその人民的カリスマを獲得したことを、北朝鮮人民はよく知っていたのだ。その最後の政治的期待が捨てられたことで、国民と現場の幹部たちは裏切られたという気持ちにすらなったのだ。※1

金正日が、国民の要望に対する背信によって、リーダーシップへの支持と正当性を喪失してしまったことは、政治分野の(システム)崩壊の拡大、とりわけ「権力の分割」を表面化させた。※2

北朝鮮国民は、「現指導部は言葉では首領制に固執するが、行動上では保守でも改革でもなく対応無策だ」と断定していた。その具体象は後で見ることにする。(続く)

整理者注
※1 「金正日は『首相』にならなかった」という失望が、90年代末に幹部たちから数多く聞かれたという。破綻した経済を実務的に回復させる責任を放棄したという意味だと思われる。
※2 金正日が経済問題に対する責任を回避したため、軍と党の各機関が、利権を巡って争い、それは権力闘争の様相を呈し、国家経済は権力機関別に分断されることになった。党の唯一的指導は形骸化することになった。

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