私が杉山さんと初めてお会いしたのは2007年11月。名古屋市千種区のバス停を降りると、ピンクの帽子に真っ赤なコートを着た小柄な杉山さんが待っていてくれた。
取材を終えると、行きつけの小料理屋に案内していただいた。ビールをすすめてくれ、自身は好物のウナギのかば焼きを注文した。「元気の秘訣はこれ」と打ち明けてくれた。
90歳を超えてもなぜ、声を上げ続けるのか尋ねると、答えは明快だった。
「子や孫の世代が戦争に脅かされないためにも、戦時災害援護法がないと『国民はいつも踏みつぶしていい』という政府の考えを通すことになってしまう。戦争で傷ついた人間が存在したという証しとその痛みをわかってほしい。それに、死んでいった仲間たちの無念、私自身の人生を奪われた無念を思うと、やめるわけにはいかんのだわ」
10年8月、東京、大阪の空襲訴訟原告団が結成した「全国空襲被害者連絡協議会」(全国空襲蓮)の顧問となり、車いす姿で支援を訴えてきた。
今年6月には愛知弁護士会主催のシンポジウムに出席。「国は耳を持っていない。援護法を訴えても知らん顔。いつになったら戦争は終わるのでしょうか」と訴えた。それが公の場での最後の姿となった。
援護法の実現を見ぬまま亡くなった杉山さん。さぞかし無念だったことだろう。 10月9日には、名古屋市内でお別れの会が開かれる。
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