「苦難の行軍」とは何だったのか? ある脱北知識人が経験した飢饉の正体(1)へ
解放直後の1945年、北朝鮮の各地域に恐ろしい疫病が流行した。それはコレラだった。解放の喜びもつかの間、この病魔に人々があちこちで倒れたが、ソ連駐屯軍は極東の政治だけに奔走して、住民の健康などには目も向けなかったらしい。
各地域で自主的に発足しつつあった自治住民組織が懸命に頑張って、患者を隔離する一方、資産家らに訴えアヘンを収集して伝染を食い止めたそうだ。ところが、その解放から50周年を迎えた1995年の夏、社会が大混乱し無秩序になると必ず流行るという不気味なコレラが、案の定、北朝鮮をまた襲ったのだった。
すでに1988年の夏には、平壌で発生した「パラチフス」というわけの分らない消化器病が全国へと拡がっていったが、1990年代半ばは、まず餓死者発生と栄養失調という、足の甲に落ちてくる火の粉を消すのに精一杯で、伝染病のようなものに関心や金を回す余裕もなく、年々罹病率の増加したことで、ようやく各病院に専門病棟が設置されるようになった。
冬は冬で、異常な悪性感冒が流行った。民間では「辛い風邪」と呼ばれたこの病は、酷い粘膜の破壊出血と痛み、高い発熱を引き起こして、人間の脳に深刻な後遺症を残す。後になってこの感冒は、あの「パラチフス」治療薬が効くとか言われ、“パラ風邪”と呼ばれるようになる。この病気は現在も収まっていない(2006年時点)。その高熱後遺症は深刻だった。幹部の人事では、二回この病に侵された者は、職を解かれるか、自ら辞退するかの決定が下されるようになった。幹部やその候補たちは、必死になってインフルエンザ治療薬を非常用として手に入れようとした。
◆糞尿、シラミ、屍…混乱が衛生悪化に拍車
この様な状況は、医療制度がまともに機能しない上に、社会の無秩序と食糧不足による最悪の衛生状況によって生み出されたものであった。エネルギー、水、石鹸、洗剤の不足はもちろんだったが、当時は用便に関する道徳心まで完全に<文明>を失ってしまっていた。様々な家畜を、狭い屋内で人と一緒に飼育することも当たり前になっていた。そんな家で調理された食べ物が市場で売られていったのだ。一方、郊外の農場では、市内で人糞を掻き集めてそのまま野菜畑にまいたり、豚の飼料にしたりして、その生産物を市場に持ち出して売った。
尿の臭いなど様々な悪臭が漂い、市場と鉄道の衛生状態は最悪だった。鉄道駅は数少ない主要な公衆場所となった。物流の中心でもある駅には、コチェビ=放浪者たちが集中した。駅は、彼らコチェビたちが他人の捨てた食べ物カスを拾い、さらに寝ることもできる唯一の生活拠点になっていた。
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