闇市場でパンか餅のようなものを頬張る人民軍兵士。不衛生な闇市場の食品が伝染病を拡散させた。咸鏡北道の茂山(ムサン)郡にて撮影キム・ホン(アジアプレス)
闇市場でパンか餅のようなものを頬張る人民軍兵士。不衛生な闇市場の食品が伝染病を拡散させた。咸鏡北道の茂山(ムサン)郡にて撮影キム・ホン(アジアプレス)

 

またさらに、毎日発見される縁故者のない死体も駅前には放置されていた。蠅と南京虫、シラミなどあらゆる害虫が、がむしゃらに人々を攻撃した。コチェビ一人の体には、普通数百、数千のシラミが這い回った。こうして、人を媒介する伝染病と害虫、寄生虫の循環回路がフル稼働して、やがて国全体に「伝染網」が構築された。

北朝鮮で知られていたコレラに対する個人予防法は比較的簡単なものだった。一つは物理的殺菌法で、沸かした水を飲むこと。だが水を加熱するエネルギーを解決するのが大変だったのだ。他の一つは銀の殺菌効果の利用だが、高くてまた偽物が多かった。こうして95年には、数多くの哀れな人々がコレラによる急激な重症脱水症で命を失った。

路上生活者になり果て、あるアパートの下の倉庫で暮らしていた私も、自殺未遂事件直後から、死の使者にいつも付きまとわれていたのか、コレラに罹ってしまった。餓死から命拾いした私は、またも脱水による臨死体験を強いられた。しかしこの時は意識を失わなかった。初めはただ突然の普通下痢だと思って、下痢止め薬を飲んでいたが、毎日私を訪ねてくる親友が、流行っているこの病気が、あの解放直後に発生した疫病のコレラで、巷では大騒ぎになっていると教えてくれた。

非常識のせいか、不思議にも自然界のこの病気には何の恐怖も感じなかった。それよりも、コレラであることがばれると、倉庫からも追放されてしまうのではないかと、病気よりむしろ社会を恐れた。医師である彼女は治療の方法や薬を教えてくれた。当時、中央の保健当局が国連保健機関に申告したのか、国家次元では外国の支援が届いていた。

だが、これらの病は、その名も「急性下痢症」と命名され、隠蔽的に情報管理を徹底した。インド産のオーラル性食塩水の粉末が大量に高い値段で市場に出回った。幸い間に合ったので、私も早速市場で購入し、それで再び命を取り留めた。

飢餓と寒さ暴力と並んで、多くの北朝鮮の民衆の生命を奪い取った恐ろしい病魔。それが私の体から去っていったのは、季節も涼しくなり稲の収穫が始まる10月に入る時だった。

<何とかこの秋まで頑張るのだ。秋までに配給や職業は元通りになるだろう>

秋に希望を見出し、私は生き延びたのだった。 (続く)

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