青い制服の列車保安員が乗客の検査をしている。通行証や身分証を調べる。2005年6月撮影リ・ジュン(アジアプレス)
青い制服の列車保安員が乗客の検査をしている。通行証や身分証を調べる。2005年6月撮影リ・ジュン(アジアプレス)

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◆平壌に直訴に向かった幼き忠誠分子たち

少年団員たちは、社会秩序の混乱を金正日将軍様に直々に訴えるために、決死の覚悟で鉄道に乗って平壌に向かおうとした。だが、革命の首都平壌に地方の者を踏み入れさせない厳しい入域検閲が少年団員たちの前に立ち塞がった。

例えば、鉄道の“平壌-羅津線”鉄道の場合。

国民たちから平壌市を「守る」ために、平壌の手前100キロの新成川(シンソンチョン、中部朝鮮の駅名)で検閲があり、第一次としてまず連行下車される。

次の順川(スンチョン、西部朝鮮,平壌の70キロ手前)で、第二次の連行下車があり、別の独立的な増強取り締まり班が乗車する。最後に間里(カンリ、平壌の15キロ手前)で行われる第三次取り締まりをパスするか、潜り抜けた者だけが平壌に上京できるわけだ。

身震いするほど厳しいこの取り締まり戦闘が終わると、混雑していた列車の定員82人用1車両は、せいぜい10人足らずの平壌通行証所持者だけでガランとして平壌市内の駅に着くのだ。

さらに、である。改札口を出ようとすると、また別の通行証確認が息苦しく待っている。改札では、平壌市民でない“地方人”は、恥ずかしくも通行証を改札口の警察に直ちに回収され、暗い駅の地下にある、椅子もない確認口の前に罪人のように追い立てられ、列に並ばなくてはならないのだ。

そこには各方面からの列車で到着した地方の人々数百名が群れ集まり、確認された自分の通行証が返されるのを30分以上待たなければならないのだ。もちろん幹部や外国人には、改札口も確認口も階級社会らしく別途特殊に設けられて、専用待合室は結構立派である。

この1995年当時、工場や企業はほとんど閉鎖されていたし、また、出張旅費や食糧券の支給も消滅していて、出張の項目自体が消えていた。しかし、商売や私生活上の目的で、全国消費の50%以上と、人口の1割が集中している平壌市への出入は相変わらず活発だった。

換言すれば、この平壌旅行者の全員が持っている通行証を発給することが、ある既得権益層の主要な収入源になっていたのだ。つまり、「証明書の闇市場」が登場していたのである。
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