しかし1995年には、もはや彼らは忠実な党員とも愛国者ともみなされなかった。ある道の道庁所在地に位置する道党委員会と道人民委員会の庁舎の前には、この年の夏頃から道内の各地から自然発生的に集まった「憂国の士」たちが、連日数十、数百人になり山のようであった。彼らは、今か今かと事態解決のために根本対策が決定され発表されることを待って座り込んでいたのだ。
出退勤する現役の幹部たちは、その革命先輩たちの「阻止線」に引っかかり、投げかけられる激烈な質問に答えるために脂汗をかいていた。そうこうするうちに数ヶ月がたって暑さも去り、間もなく落ち葉を散らす北風の吹く季節がさし迫るころになって、事態は暴力的な排除にまで転じ始めた。
冬を目前にして緊急に対策が立てられないならば、人民は群れて死んでいくだけだという判断が、座り込みの人々の焦りに火を点けたのだ。だがそれが口実となり、すぐさま武装軍人が動員されてその区域は封鎖され、座り込みをしていた老人たちは拘束されて「集団的義挙」も強制中止・解散を余儀なくされた。
該当地域の関係者らは道所在地へ呼ばれて、老人を居住地へと追い払った。日本はじめ外部の言論は、このような出来事について一言半句も報道しなかった。脱北者ですらその記憶も薄くなり、世界も目を向けないまま、この「事件」は幕を閉じた。近代朝鮮史のページには、多くの「憂国の士」の行動が記録されているが、90年代の共和国の歴史に彼らが記録されるページはないのだろう。
その1年後、金日成の銅像周辺では年寄りの死体がしばしば発見された。夜間の警備担当者の安全員の話によると、その死体は座り込みの老人たちであった。1年前と違って誰も訪れることがなくなった静かなこの「聖地」が、忠実な老党員と熱烈な老愛国者には、それでも安心して目を閉じられる最後の安息地になったのだろう。
そんなこととは何の関係もないかのように、銅像の前に伸びる大道路では、重たい背嚢を背負い、大小のリヤカーを引く群衆が、生き延びるためにもがくように走り回っていた。